記録係のお思い出(2)
2021.8.7
奨励会員も有段者(初~三段)になると、タイトル戦の記録係を依頼されることがある。
タイトル戦となれば、最高の将棋を勉強できる上に、旅館で美味しい料理が食べられ、記録料も良かったから、皆あこがれたものである。
私が三段になった頃(1972年)の対局場は、今でも対局のある老舗旅館の他は、都内の『福田家』のような料亭も多かった。
その時代の有名な話に、記録係の食事は別室に呼ばれ、懐石料理の一行と違って、昼は天丼、夜はカツ丼の繰り返ししか出なかった、という話がある。
「奨励会時代にその恨みがある人が棋士になり、総会の投票で名人戦の主催新聞社が変わった」と書いた人がいたが、そんなことで主催紙が変わる訳はない。
ある棋士は「事実だけど、修行中の奨励会員だから当然と思った」と言い、私などは当時、肉類が全く食べられなかったので「カツ丼が出てきたらどうしよう」ということしか考えなかった。
名人戦の記録の1日目の夜、お腹が空いたのでアイスクリームを外に食べにいったら、翌朝から下痢になり、ほとんど一日トイレにいたことがある。
それでも当時、名人戦の記録は2人だったから、事なきを得たのだが。
現在は名人戦と竜王戦の記録係は、和服着用が義務だが、私は三段の頃から進んでタイトル戦で着物を着ていた。
東京・恵比寿『羽沢ガーデン』の記録の朝、和服一式に忘れ物がないかと十分注意し「よし大丈夫」と出かけたら、記録の道具(棋譜用紙やストップウオッチ等)をすべて忘れたことに気付き、あわててタクシーで将棋会館を往復して、記録料が一瞬で飛んだこともあった。
そして一番思い出深いのが、私はこの羽沢での第23期棋聖戦の記録係の最中に、四段に昇段したことである。
関西で対局していた淡路仁茂三段(当時)が勝ち、関西リーグで優勝。三段リーグ3回優勝は無条件で昇段の特別規定で四段になったので、すでに関東での優勝が決まっていた私も昇段(の規定は本来なかった)となったのだった。
タイトル戦の記録も、近年では希望者が少なくなったと聞く。3日か4日、拘束されるのが嫌なのか、研究ならAIでやれば良いと思うのか。時代は変わったものである。
■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。
情報源:【勝負師たちの系譜】記録係の思い出(2) 思い出深い四段昇段 忘れ物取りに帰った交通費で報酬がパーに (1/2ページ) – zakzak:夕刊フジ公式サイト
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— zakzak (@zakdesk) August 7, 2021
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