「うつ病はこうしてやってきた」羽生世代の棋士が綴る”うつぬけ体験記” | 文春オンライン

ふむ・・・


羽生世代と言われる棋士のなかでも、最も早い11歳で奨励会に入会した先崎学九段。17歳でプロデビューし、1990年度のNHK杯戦では同い年の羽生善治を準決勝で破り、棋戦初優勝。2014年には九段に昇段している。

そんな将棋界の重鎮、先崎九段が昨年9月に突然将棋界から姿を消した。休場した理由は「一身上の都合」とのみ発表され、様々な憶測を呼んだが、じつはうつ病のために入院していたのだ。そして1年の闘病を経て、今年6月に対局への復帰を果たす。

エッセイの書き手としても知られる先崎九段はうつ病の発症から回復までの日々を新刊うつ病九段に綴っている。書籍の発売を記念し、本書の一部を特別に公開する。

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いったいに、本書の内容のようなことは、はじまりの日を具体的に記すことは難しいのだろうが、私ははっきりとその日を書くことができる。それがはじまったのは、6月23日のことだった。

なぜ、私のようなずぼらで日記などつけたことのないような人間が、こうしてピンポイントに日付を書けるかというと、その前日が私の47回目の誕生日だったからである。その日私は、一仕事を終えて通いつけのボクシング・ジムへ行き、帰りに家族でインド料理を食べて幸せなひとときを過ごしたのだった。ビールを2、3杯飲んで、帰りがけにはこれからカラオケでも行こうかといったぐらいであって、つまりは私は元気で、楽しく、なにより生活に余裕があった。

起きている時は頭が重く気分が暗い

翌日、起きた時は普通だったが、朝食をいつものように食べてもまったく疲れが取れていない。昼過ぎまでずっとソファで横になっていた。また、ほんのりと頭が重いのをたしかに感じた。3時頃から仕事に出て夜に帰ったが、やはり頭が重い。

先崎学九段 ©文藝春秋
先崎学九段 ©文藝春秋

数日はそんな日々がつづいた。そのうちに、自分の体の中で何かが起きているようなムズムズした感じを受けるようになった。人間落ち込んだり暗くなったり、あるいは仕事が億劫になったりするのはよくあることである。しかし、苦しい時間があれば楽しい時間があって、それで日々の営みがなりたっていくものだろう。その頃の私のように、起きている時は常に頭が重く気分が暗い、という状態はなかなかあるものではあるまい。

1週間が過ぎた。オソルベキことに症状はどんどん重くなるばかりであった。このころはすでに体の内面からこみ上げてくるのを感じるまでもなく、これはおかしいと自覚できるようになっていた。特に寝起きが苦しくなる一方で、それも朝の4時には目が覚めてしまう。だんだんと寝入りも悪くなっていった。

もっともこの時点では私も妻も楽観視していた。7月の上旬に一年がかりで行う順位戦という棋戦の初戦があって、そのプレッシャーが原因だろうと考えていたからである。これまでも、おおきな対局を前にプレッシャーで精神のバランスを崩すことは何回かあった。ただし、もちろん対局も仕事もできていたし、日常のこともほぼできた。しばらくすれば元に戻るのが常であった。だから今回のことも過去のケースと同じように一時的なものだと考えていたのである。

1日しか休みがなかった2月と3月

だが、まったく予兆がないというわけではなかった。この半年以上、日本将棋連盟はいわゆる「不正ソフト使用疑惑事件」のことで揺れに揺れていた。真相を究明するために第三者委員会ができ、理事の半数以上が会員(棋士)の投票によって解任されるという異常事態が起きていた。将棋連盟はほとんど組織の体をなしておらず、行政の指導やらスポンサーの契約金の減額などという物騒なことばが飛び交っていた。詳しくは書かないが、私は佐藤康光会長と連日会って深刻な話し合いをしていた。あの温厚を絵に描いたような佐藤君が四ツ谷の居酒屋で「やってられねえ」と語気を荒らげ、ごろりと寝転がってしまったことすらある。

将棋会館(千駄ヶ谷) ©文藝春秋
将棋会館(千駄ヶ谷) ©文藝春秋

そんなわけで、2月と3月は1日しか休みがなかった。その貴重な休みには家でひたすら「ドラゴンボール」を読み返していたのを覚えている。

4月に入っても余波はつづき、理事会の新体制ができても、私が裏で画策したのではないかと先輩の棋士に呼び出されて詰問されたりしていた。私は古いタイプの人間だから、先輩に何かをいわれると弱い。

事務所兼マネージャー兼タレント状態

そのころ、私が長年かかわった漫画作品が映画になって封切りされた。私はこの映画で、地に落ちた将棋界のマイナスイメージを払拭させてやろう、一発逆転をしてやろうと張り切って、すべての仕事を受けた。原稿、イベント、取材、ほとんど休みがなかった。将棋連盟の広報にはなしがくるという正式な手順を踏んでくれればいいのだが、そのうちに自宅やケイタイにばんばん連絡が入るようになり、多くはこんな感じだった。

「今度、ウチの将棋大会で映画のイベントをするのだが、来てもらえないだろうか」

お世話になっている方からこういう電話をもらっても、映画というものは権利関係が実に細かく設定されていて、してはならないことが山のようにある。企画の内容を聞くと、そのイベントをつぶさなければならない。連盟の広報を通してほしいと頼んでも、水くさい、なんとかお願いできないかといわれる。出版社や映画の配給会社へいってくれというと、何でそんなところに連絡しなければならんのだ、と怒られる。

当時、将棋連盟の広報担当は2人しかおらず、私のスケジュールをすべて管理するのは到底無理な話だった。日に数件の取材やイベント(対局の前日にもほとんど仕事をしていた)だけでなく、現場での細かい打ち合わせも、大半は自分で管理しなければならなかった。すなわち私は、事務所兼マネージャー兼タレントをやらなければならなかったのである。

私は毎日、家で叫んだ。「俺にマネージャーをつけろ!」。実際、3カ月限定で事務所に入ろうと思って打診したこともあったが、そんな話は聞いたことがないと断られた。

6月の終わりというのは、やっとすべてが一段落して、すこし私も落ち着き、世間では藤井聡太君が注目されだしたころだった。藤井君のフィーバーのおかげで私があれほど望んだ一発逆転を棋界が果たすと知るのは、この先にも書くとおり、しばらく先のことだった。

情報源:「うつ病はこうしてやってきた」羽生世代の棋士が綴る”うつぬけ体験記”(文春オンライン) – Yahoo!ニュース

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