山崎隆之八段 (c)朝日新聞社

「弱いなら死ねば」と思っていた10代…初のA級・棋士山崎隆之八段の苦難の道〈dot.〉

へぇ・・・


2021.2.8 17:00

山崎隆之八段 (c)朝日新聞社
山崎隆之八段 (c)朝日新聞社

2021年2月4日、第79期将棋名人戦・B級1組順位戦の12回戦が行われ、山崎隆之八段のA級への昇級が決まった。A級は名人挑戦権を争うことができる最上位のクラス。山崎八段がA級に参戦するのは初めてのことになる。

そんな山崎八段は、村山聖を育てた名伯楽・森信雄の弟子としても知られている。神田憲行著『一門』より、一部を抜粋して山崎八段が歩んだ歩みを紹介する。(敬称略)

*  *  *

森一門の弟子たちに「弟子の中でいちばん勝負に辛(から)い棋士は誰か」と問うと、全員がすっと山崎を指さす。

勝負に辛いとは、勝ち負けにこだわる厳しい将棋を指すことをいう。劣勢にあっては粘り、優勢にあっては1パーセントの逆転も許さない手で確実に仕留める。山崎は周りからそう思われ、また、そういう雰囲気をまとった棋士だった。

1981年、広島市生まれ。プロになった森の弟子の中で、年齢的に上から4番目の弟子である。村山聖が学んだ広島の将棋道場の出身だ。村山という「成功体験」ができてから、広島出身の棋士志望の少年たちが森の門を叩くようになった。山崎もそのひとりである。

山崎には一門の中で特徴的なことが三つある。ひとつは中学を出てすぐ森の内弟子になったこと。昔は中卒の棋士はいたが、棋士が高学歴化するいま、中卒の棋士は珍しい。しかも通いではなく森の家に住み込みの内弟子も珍しい。さらにもうひとつ、山崎は一度、破門になりかけていた。

山崎が森門下に入門し、奨励会に入会したのは92年、11歳のとき。それから6年後の98年に四段に昇段してプロになった。

奨励会はできるだけ早く入れば良い、というものでもないらしい。9歳や10歳でまだ実力が十分でなく、人間的にもかなり幼い時期にたまたま入会試験に合格してしまうと、最初はとことん負け続ける。負けるとまだ小さな子どもなので将棋が嫌になる。

山崎自身は10歳ぐらいから「びゅー」と急に棋力が向上していったのを感じたという。「だから奨励会に入っても、そのままの勢いで半年ぐらいは勝ち続けられたんです。すると周囲の目線が『こいつはやるな』となって良い目立ち方ができる。同じ奨励会員の中でも一種の格上扱いみたいになってきて、変な遊びとかに誘われなくなるんですね」

入門前の広島時代は、後に初の東大出身棋士となる同年齢の片上大輔と「二強」と並び称されていた。周りに格好の練習相手がおらず、2人で何百局も指したという。

「だから片上君が東大に合格したと聞いたときも、自分もちょっと勉強したらそれぐらい合格できるんじゃないかと思ってました。中卒のくせに。大学受験浪人中の姉からはえらい怒られましたけれど」

奨励会三段のときに、羽生善治が七つの将棋タイトルを独占する「七冠」という前代未聞の偉業を達成した(96年)。将棋界は大いに沸いたが、山崎はひどいショックを受けていたという。

「何か喪失感みたいなものがあったんですよ。だから七冠目のタイトル戦も『負けろ!』って、ずっと祈ってましたね」

山崎にとって羽生は憧れの棋士ではなく、倒すべき相手だった。師匠の雰囲気を反映してか、どちらかというと勝負に関してのんびりした森一門の中で、山崎の勝負根性は異質である。村山と山崎だけかもしれない。山崎は森が弟子を多く取ることに関して、こう語ったことがある。

「師匠は基本的に人に優しくて人が切れないんです。だから弟子が多い。でも、将棋というのはどこか刀で人を斬るようなところがありますからね」

奨励会時代の山崎を知る人は、「とにかく突っ張っていて怖かった」と評する。兄弟子の増田裕司も、山崎に挨拶をしたのに無視されて激怒したことがある。

「今は歳を取ったぶん、丸くなったと思います」

とげとげしい空気をまとっていたのは、退路を断って将棋に進むしかないと中学生で覚悟したからだった。

弟子入りして広島から大阪に出てきた当初は、母親と一緒に暮らし、広島の実家には父親と姉が住んでいた。家族が離ればなれになり、母親も働いて山崎の修業を支えた。

「奨励会のたびに月2回新幹線で通うのも大変なので、中学1年生のときにこちらに転校してきたんです。母親は僕と一緒に住んで、こちらでの生活を支えるために、どこからか仕事を見つけてきて働いていました。師匠はそういう状況を見かねて、内弟子を勧めてくださいました。師匠もまだ独身で気楽なこともあったと思います」

「内弟子といっても仕事は将棋の駒と盤を磨いたり、師匠の部屋を掃除したりするくらいでした。たいした用事もせず普通の家の子とそうは変わらないと思いますが、やはり緊張感はあったと思います」

多感な中学生が、師匠とはいえよく知らない大人の男性と一緒に生活をするのはストレスが溜まるはずだ。よく決断したと思うが、山崎は首を振る。

「僕はなんでもいい、住めればどこでも良かったんです。棋士になるために全てを捨てて出てきたので、もう田舎に戻れない。みんなにプロになるといって出てきたので、ここしか居場所がないと思い詰めていました」

■「弱ければ死ねばいい」と思っていた

高校には進学するつもりだったが、なんと公立高校の入試日と三段リーグの対局日が重なった。現在は学校を配慮して三段リーグは土日に行われるようになったが、当時は平日に行われていたのである。

「私立という選択肢もあったんですけれど、勉強もそれほど好きではなかったし、お金がけっこうかかるイメージもあったので、そこまでして行かなくてもと思いました。親は一応師匠に『高校ぐらいは行かせた方がいいですか』と尋ねたらしいんですが、『(試験日と対局が重なるのは)そういう運命やから』ということで、さっさと中卒が決まりました」

山崎の当時の奨励会の先輩は、親から反対されてプロを目指している人が多かった。それぐらいだから将棋に対する覚悟が強かったかというと、山崎の目から見てそうは思えなかった。

「周りの景色が変わらなければ焦らない人たちでした。伸び悩んでる人たち同士が傷をなめ合う。なんかみんなで慰め合って、意外に将棋の勉強をしていないというのが子ども心に感じたことです。なんでこの人たちは将棋から逃げているんだろうな、将棋が弱いなら死ねばいいのに、ぐらいの気持ちでしたよ」

弱ければ死ねばいい。山崎の苛烈な勝負観が表れている言葉だと思う。

故郷を捨て、同世代の少年たちが学校に行く姿を横目に見ながら、師匠の家で黙々と盤を磨く。10代の山崎はそこまで尖っていないと、逆にやっていけなかったのかもしれない。だからこそ中年にさしかかった今、「死ねばいいのに」と思っていた奨励会仲間の気持ちが少しわかるようになった。

「もう将棋しかない状況に追い込まれて、最後のとりでの将棋を本気でやり尽くしてそれで結果が出なかったら救いがないじゃないですか。だからやりきらないで、やればできる自分という幻想を最後に残しておきたかったんだと思います」

恐らく当たっていると思うのだが、そこまで冷静に分析しなくても、という気にもなる。

■「将棋が強くても人として意味がない」

森は山崎について、やはり「子どものころから勝負には辛かった。将棋の勝負のことしか考えていなかった」と語る。

ある日、森が朝帰りをすると、中学校に登校しているはずの山崎がまだ寝ていたときがあった。

「お前、学校は?」

と訊ねても知らんぷりしている。

激怒した森が山崎の鞄を外に放り投げ、

「今から学校に行ってこい!」

と怒鳴った。

また森の友人が泊まりに来たとき、隣の部屋で山崎が奨励会仲間と将棋を指していた。深夜だ。友人が「山崎君は明日学校でしょう? 寝るように言わなくていいんですか」と気を遣うと、森は、「放っといてやって。今師弟関係は冷戦関係や」

友人は黙り込んだという。

山崎は一度、森から破門になりかけている。

それは阪神・淡路大震災が起きたときだった。震災当日、中学生だった山崎は森の自宅マンションで一緒に被災した。地震の影響で歪んだドアに身体をぶつけて外に出て、近くのアパートに住んでいた他の弟子のもとへ駆けつけた。震災で亡くなった森の弟子・船越隆文のことである。

すでにアパートは倒壊し、周囲一帯に非常警報が鳴り響くなか、船越の安否を確認するため捜索した。その途中で、山崎が公衆電話から将棋連盟に奨励会の対局について問い合わせたのが、森の逆鱗に触れた。

「今こんな大変なときにそんな心配をするとは何事だ。いくら将棋が強くても人として意味がない。俺はもうお前の面倒など見られないから、他の師匠でも探せ」

泣きじゃくりながらその場で許しを乞うたが、森の怒りは収まらず、内弟子を解かれて広島に一時帰らされた。14歳だった。広島の実家から奨励会の対局があるたびに新幹線で大阪へ通ったが、山崎は日に日に自分が「腐っていく感じ」にとらわれたという。

ほとぼりが冷めたころに大阪に戻り

「やはり師匠のもとで将棋に励んでいるのと、親元にいるのでは、緊張感が全く違いましたから。実際半年ぐらい、実家で将棋をしませんでした。ぬるま湯でこの感覚に染まったらダメになっていくのがわかりました」

脳裏にかつて自分が厳しく批判した努力しない奨励会員の姿が浮かんだ。そこでほとぼりが冷めたころに大阪に戻り、今度はひとり暮らしを始めた。森には伝える勇気がなく、見つからないように立ち回っていたがバッタリ出くわして見つかってしまった。

「お前のそういう所があかんのじゃ!」

またお説教をくらったが結局、許してもらえた。

山崎はそこに森の温かみを感じるという。

「それだけ人に怒れるということは、他人に対して熱を込められるということです。僕はそこまで他人に熱を込められない。奨励会時代、師匠の周囲にいつも人のぬくもりを感じることができました。師匠の弟子でなかったら今の僕は全然変わっていたんだろうなと思う」

山崎は98年4月、17歳で四段に昇段した。奨励会に入会したのが92年9月だから、奨励会在籍6年足らず。プロになる棋士の平均は7年というから、まずまずのスピード出世と言えるだろう。

四段昇段後、山崎は周囲の期待に応えるような活躍を見せている。00年第31期新人王戦で棋戦初優勝、04年第45期王位戦で挑戦者決定戦出場、09年第57期王座戦でタイトル初挑戦。タイトル戦出場は1回、棋戦優勝は8回。名人戦順位戦は08年に「鬼の棲み家」と呼ばれるB級1組に昇級。段位は06年に当時六段だった師匠の森を抜いて七段に昇段、13年に八段に。

「弱いなら死ねばいい」と言っていた山崎も、もうすぐ不惑を迎える。最近は周囲からさすがに「丸くなったね」と言われることが多い。

「中学生時代のヤマちゃんのほうが魅力的だったみたいなことは、当時の先輩の奨励会員からすごく言われますね」

■師弟関係の変化

今の山崎はファンに対して紳士で、ユーモアのある棋士として知られている。

森一門は、コロナ禍の前までは、毎年「森一門祝賀会(一門会)」といういわゆるファン感謝祭のようなものを大阪市福島区にあるホテル阪神で行っていた。1部がファンと一門のプロが対局する「指導対局」で、2部が前年に活躍した棋士たちを祝う祝賀会だ。第1部での山崎と女性ファンの対局が面白かった。

恐らくそのファンはまだ初心者なのだろう、山崎が飛車角香車の四枚落ちで対局している。考え込んだ彼女が盤上に持ち駒の銀を置くと、山崎が「あっ、惜しい!」と身をよじった。

「正解に近いです。もう少し考えてみましょう」

そういって山崎は女性の銀を駒台に戻した。攻められている山崎が女性に自玉を詰ませようとしていた。

プロを詰ませて勝つ喜びを持ってもらう。ただ負けるのでなく、彼女に詰めろ(詰ませていく手順)のヒントを与えて導いていく。

相手はこの女性だけでなく、ひとりで同時に3人と対局する三面指しだった。他2人の男性にも「素晴らしい妙手ですね」「手も足も出ません」と大げさに相手を持ち上げて笑わせながら対局している。

女性が銀ではなく金を駒台から掴んで置くと、「正解です!」と声を出してまた笑わせた。物腰が柔らかく、トークが軽妙な山崎は一門でも人気が高い。

年を重ねて、森と山崎の関係も変化してきている。山崎は中学生のころ、森と村山が話し込んでいるのが不思議だったという。

「師匠が村山先生に相談しているみたいで、師匠と弟子、という関係に見えなかったんですね。あの怖い師匠が相談しているんだと」

そして今、森が相談するのは山崎になっている。「奨励会の弟子の調子とか、相談するのは山崎君やね。いろんな棋士のことを良く見ているし、分析も的確やから」

と森が言えば、山崎も、

「相談というほどではないですが、師匠と話をするといつのまにか9割は一門の話になりますね」

と肯く。

「僕から見て、師匠も村山先生が生きておられたころから、ずいぶん弟子に対する姿勢も変わってこられたと思います」

と分析する。

山崎も村山の世界観に影響を受けているのか…

「これは僕の想像なんですが、村山先生はご自身の時間が限られていることをご存じでしたから、将棋や勝負にかける姿勢は非常に厳しいものがありました。無駄な時間を過ごしたくない。やる気のない人に構っている時間はない。極端に言えばやる気のない奴は近寄るな、やめてしまえ。師匠もそういう姿勢に惹かれていたと思います」

山崎も村山の世界観に影響を受けているのか。訊ねると山崎は考え込んだ。

「師匠の内弟子をしていたので、村山先生から影響を受けた師匠の部分をより濃く、影響を受けているかもしれません」

影響を受けていると思うのは、たとえばこういうところだ。山崎は若い奨励会会員に対して「最近よく頑張っているね」という類の軽い社交辞令のような、励ましが言えない。

「そういう優しい言葉って、嘘っぱちなんですよ。本当にある程度強くなったりした人には言いますけれど、そうでない人にそういうのは甘やかしてているだけ。僕は同じ世界にいるときはなるべく使わないようにしています」

と言いつつ、

「もっとも最近はおべんちゃらも覚えなきゃと思うので、どうでもいい人に使うこともありますけれど」

というのも怖い。

情報源:「弱いなら死ねば」と思っていた10代…初のA級・棋士山崎隆之八段の苦難の道〈dot.〉(AERA dot.) – Yahoo!ニュースコメント

情報源:「弱いなら死ねば」と思っていた10代…初のA級・棋士山崎隆之八段の苦難の道 (1/7) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)



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