9月27日に50歳の誕生日を迎えた羽生善治九段

羽生善治九段50歳に 大山康晴、加藤一二三…天才棋士たちの恐るべき“最年長記録”、羽生は超えられるか – 将棋 – Number Web – ナンバー

こうしてみると、大山十五世名人やひふみんって化け物だわ


2020/09/27 11:01

9月27日に50歳の誕生日を迎えた羽生善治九段
9月27日に50歳の誕生日を迎えた羽生善治九段

2020年9月27日、羽生善治九段は50歳の誕生日を迎えた。2年前に無冠となってからはしばらく雌伏の時を過ごしていた感もあるが、間もなく始まる竜王戦七番勝負で久々に挑戦者として名乗りを上げ、通算獲得タイトル100期に挑む。また、現棋界の最強の7名が集まったともいわれる王将戦挑戦者決定リーグでは、藤井聡太二冠を初戦で下し、こちらでも健在を示した。

五十路を迎えても、第一戦で戦う姿に変わりはないようだが、棋士にとっての50歳とはどのような年齢なのだろうか。過去の名棋士と比較していきたい。

47歳で潔く引退した木村義雄

木村義雄十四世名人。1952年の第11期名人戦で大山康晴に敗れると、47歳で潔く引退した(photograph by Bungeishunju)
木村義雄十四世名人。1952年の第11期名人戦で大山康晴に敗れると、47歳で潔く引退した(photograph by Bungeishunju)

21歳で八段に昇段して以降、現在の藤井聡太二冠に勝るとも劣らぬ勝率を上げ続け、1937年に史上初の実力制名人となった木村義雄十四世名人は、1952年の第11期名人戦で大山康晴へ名人位を明け渡すと、潔く引退した。ときに木村47歳のことである。

「大山氏は実に強くなった。中終盤の正確さは驚くべきものがある。一昨年の名人戦に比べれば、文字通り飛躍的である。いつかはこうなる私の運命だったともいえる。私はよき後継者を得た」

名人戦を戦い終えての木村の自戦記、その末尾の一文だ。

現在の視点で考えると実に早い引退とも思えるが、当時は木村に限らず、40代そこそこで引退する一流棋士が多かった。史上初の大学卒業棋士として話題となった加藤治郎名誉九段は、戦前に行われた朝日番付戦で木村義雄の東正横綱に対して西正横綱を張った実力者だが、順位戦A級から陥落した1949年に、なんと39歳の若さで引退している。A級経験者では最も若い引退棋士だろう。

63歳、現役B級1組のままガンで亡くなった塚田正夫

木村義雄から名人を最初に奪ったのが塚田正夫名誉十段である。1947年の第6期名人戦で、塚田32歳の時だ。その2年後に木村に奪回を許してからは再び名人に就くことはなかったが、長年にわたりA級の地位を維持した。その間は46歳で第1期王位戦、48歳で第1期棋聖戦の番勝負に登場している。

塚田がA級から陥落したのは1972年、57歳の時。名人経験者の順位戦降級はこの時の塚田が初の例となる。周囲から引退も勧められたようだが「私は人のために将棋を指しているわけではない。まだ実戦で指してみたい戦法もあるから」と現役を続行。はたしてわずか1期でB級1組から復帰した。それからは還暦A級を実現した後、63歳で現役B級1組のままガンで亡くなった。

升田―大山、合計101歳のタイトル戦

1971年の第30期名人戦。升田幸三(左)が53歳、大山康晴が48歳。両者の年齢を足して“101歳”はタイトル戦番勝負における史上最高齢(タイ記録)(photograph by KYODO)
1971年の第30期名人戦。升田幸三(左)が53歳、大山康晴が48歳。両者の年齢を足して“101歳”はタイトル戦番勝負における史上最高齢(タイ記録)(photograph by KYODO)

昭和の将棋界は木村、塚田時代を経て、木見金治郎九段門下の兄弟弟子、升田幸三実力制第四代名人と大山康晴十五世名人の両者で相争われる時代へと移っていく。そして最後の升田―大山戦ともいうべきシリーズが1971年の第30期名人戦だ。ときに升田が53歳、大山が48歳。両者の年齢を足して101歳という数は、この15年後に実現する中原名人38歳、大山挑戦者63歳と並ぶタイトル戦番勝負における史上最高齢である。

升田はこの3年前にも50歳で大山名人に挑戦していたが、4勝0敗のストレート負けを喫していた。第30期名人戦でも初戦を落とし、「升田はもうだめか」という空気もあったようだが、続く第2局から披露した「升田式石田流」という新戦法でリードを奪う。華麗な升田将棋の復活に当時のファンは熱狂した。特に第3局では「天来の妙手」と呼ばれる、将棋史に残る好手が登場している。167局を数える升田―大山戦の中でも白眉の一局だろう。

このシリーズは4勝3敗で大山が勝利し、自身通算18期目の名人を獲得。約20年前に初めて名人を獲得した時には「まず、木村名人の在位記録、通算8期を目標にします。おそらく升田さんと二人で10年は名人を守れるでしょう」と語ったそうだが、升田・大山の両名を合わせて名人20年と、自身が想定した2倍の期間だった。この20年間が昭和棋界の黄金時代と考えるファン、関係者は多い。

大山康晴の“恐るべき”3つの最年長記録

大山康晴十五世名人。56歳で王将を奪取、59歳まで防衛。66歳で棋王挑戦。それぞれタイトル奪取・防衛・挑戦の“最年長記録”(photograph by Bungeishunju)
大山康晴十五世名人。56歳で王将を奪取、59歳まで防衛。66歳で棋王挑戦。それぞれタイトル奪取・防衛・挑戦の“最年長記録”(photograph by Bungeishunju)

升田はこの名人戦を最後に一線から姿を消して、1979年に61歳で引退する。大山も第31期名人戦で中原誠へ名人を明け渡し、二度と名人へ就くことはなかった。

だが、現在の視点から考えて、大山の真の恐ろしさがわかるのはこの後だ。1973年、50歳で中原から十段を奪取し無冠返上。また棋聖戦では1974年度前期(当時の棋聖戦は年2期制)の第24期から7連覇を達成。

そして1980年に56歳で王将を奪取し59歳まで防衛。また1990年には66歳で棋王挑戦を果たした。これらはそれぞれタイトル奪取・防衛・挑戦の最年長記録だ。ちなみに棋王挑戦時にはトーナメント準決勝で、その5日後に初タイトルの竜王を奪取する羽生善治六段(当時)に完勝している。

「A級から落ちたら引退」を常々公言していたが、1992年に現役A級のまま69歳で逝去。まさに「不世出の大名人」と呼ばれるにふさわしい棋士人生だった。

「大穴が出たようなものです」“14年ぶり”の最長記録
ポスト大山の筆頭格だったと言えるのが、二上達也九段と加藤一二三九段の両名だろう。だが両者ともに若手時代は大山十五世名人に苦闘しており、中々日の目をみなかった。結果的に大山時代に引導を渡したのはさらに後輩の中原十六世名人だった。

1970年代というのはオイルショックにより高度経済成長期が終わりをつげ、またプロ野球でもミスタープロ野球こと長嶋茂雄の引退と共に読売巨人軍のV9に終止符が打たれた転換の時代。将棋界でも大山から中原への世代交代があったのだ。

新たな時代を迎えた将棋界は中原名人を頂点として、打倒中原を目指す米長邦雄が新勢力として躍進。前述のように復権を狙う大山も各棋戦で存在感を示していた。対して二上と加藤は先輩と後輩の双方に押されていた感もあった。だがこの両者は40歳、50歳という円熟の年代になってから、改めて花を咲かせる。

二上達也九段。1980年度の第37期棋聖戦でタイトル奪取。“14年ぶり”の再戴冠は、史上最長の記録(photograph by Bungeishunju)
二上達也九段。1980年度の第37期棋聖戦でタイトル奪取。“14年ぶり”の再戴冠は、史上最長の記録(photograph by Bungeishunju)

1980年度の第37期棋聖戦で二上は米長邦雄棋聖に挑戦し、3勝1敗で奪取。49歳でのタイトル奪取は前述の大山に次ぐ、当時としては史上2番目の高齢記録だった。そして二上のタイトル奪取はこれが14年ぶりだった。一度無冠になったタイトル経験者がタイトルを奪回した例はいくらでもあるが、14年間の雌伏を経ての再戴冠は、史上最長の記録である。

「大穴が出たようなものです」とは棋聖奪取を果たした二上のコメントだ。続く第38期、39期では中原と加藤を破り棋聖3連覇を果たす。当時の流行語に引っ掛けて「窓際族の逆襲」と表現したマスコミもあった。

53歳でA級復帰した「神武以来の大天才」

「神武以来の大天才」と呼ばれた加藤一二三九段。53歳でA級復帰。50年代、60年代、70年代、80年代、90年代のそれぞれで棋戦優勝(photograph by Bungeishunju)
「神武以来の大天才」と呼ばれた加藤一二三九段。53歳でA級復帰。50年代、60年代、70年代、80年代、90年代のそれぞれで棋戦優勝(photograph by Bungeishunju)

18歳でA級八段となり「神武以来の大天才」と呼ばれた加藤一二三が悲願の名人奪取を果たしたのは1982年、42歳の時。だがその翌年に中学生棋士の後輩である谷川浩司に名人を明け渡してしまう。1985年の第26期王位戦を最後に、タイトル戦番勝負への出場もなくなった。

順位戦でも49歳の時にA級から降級の憂き目を見る。加藤のA級降級はこの時が初めてではないが、以前は全て20代の時で、翌年にすぐ復帰していた。だが今度の陥落は年齢のこともあり、復帰は難しいのではと見られていただろう。

しかし、「神武以来の大天才」は常人の想像の枠外に居た。1992年度のB級1組で9勝3敗の好成績を挙げ、53歳にてA級復帰。ちなみに同時に上がったのはこの年にA級初昇級を果たした羽生善治である。

さらに、1993年度のNHK杯戦では54歳にして自身7度目のNHK杯優勝を果たす。準々決勝で当時四冠の羽生を、決勝では竜王の佐藤康光を降しての栄冠だった。この優勝で加藤は1950年代、60年代、70年代、80年代、90年代のそれぞれで棋戦優勝を実現したことになった。

5つの“年代”の優勝達成は他に例がない。仮に羽生が今期の竜王戦で豊島将之竜王を破れば加藤に次ぐ2例目(80年代、90年代、00年代、10年代、20年代)となるが――。

50歳で名人に在位した米長邦雄

米長邦雄永世棋聖。50歳で名人に在位した(photograph by Bungeishunju)
米長邦雄永世棋聖。50歳で名人に在位した(photograph by Bungeishunju)

加藤が快挙を達成した1993年度は、中原―米長時代に一区切りがついた年でもあった。この年の第51期名人戦で米長は中原名人に挑戦。米長の名人挑戦はこれが7度目のこととなる。それまでにも各タイトル戦で中原との角逐を続けていた米長だったが、名人にだけは手が届かなかった。

だが49歳11ヵ月にして、ついに念願の名人獲得。「菜の花はトウがたってから花が咲く」との名言を残した。翌年に羽生へ名人を明け渡したとはいえ、50歳で名人に在位したのは米長が唯一無二である。

中原―米長のタイトル戦はこの名人戦が最後になった。だが両者の対戦はそれから10年続く。公式戦において正真正銘、最後の中原―米長戦となったのが2003年の第16期竜王戦ランキング戦2組である。187度目の対戦を制した中原は勢いに乗って挑戦者決定戦まで勝ち上がる。挑戦者決定戦では森内俊之に1勝2敗で敗れたが、55歳にして最高ランクの1組へ復帰を果たし、以降は61歳で引退するまでその地位を守った。60代で1組に在籍した棋士は中原と大山の2人しかいない。

50代の羽生善治は歴代棋士を超えられるか

9月27日に50歳の誕生日を迎えた羽生善治九段(10代のころ撮影)。50代でどんな活躍を見せてくれるだろうか(photograph by Bungeishunju)
9月27日に50歳の誕生日を迎えた羽生善治九段(10代のころ撮影)。50代でどんな活躍を見せてくれるだろうか(photograph by Bungeishunju)

改めて、50代の羽生について考えてみる。過去の名棋士がそうであるように、50歳を過ぎてなお全盛期と同様の活躍をみせるのは難しいだろう。目に見える形で体を動かすスポーツとは異なるのでわかりにくいが、体力の低下も大きなマイナス要因となる。一つの例を挙げると、急所の局面で腰を落として考えることが出来なくなるそうだ。

ただ、過去の棋士とは明らかに違う点が一つある。将棋ソフトの存在だ。ソフトの有効な活用法はまだ手探り段階としか言えないが、加齢によって生じたマイナスを補うことができる可能性はある。それまでのキャリアが違うので、若手棋士が使うのとはまた違った結果が見られるかもしれない。羽生自身、最近行われたインタビューでも、羽生は藤井二冠が行っているソフト活用法を取り入れると答えている。

そういう意味では一つの試金石となるのが間もなく始まる竜王戦七番勝負であることは間違いない。豊島竜王とは2年ぶりのタイトル戦となるが、2日制のタイトル戦でぶつかるのは今回が初めてである。その点からでもこれまでとは異なった戦いが見られる可能性も高い。

ニューモードの羽生善治が新たな金字塔を打ち立てるかどうか、注目である。

情報源:羽生善治九段50歳に 大山康晴、加藤一二三…天才棋士たちの恐るべき“最年長記録”、羽生は超えられるか – 将棋 – Number Web – ナンバー



すげぇ・・・