3/全9回
2016年11月16日 16時30分
■20歳で名人戦、快勝のち4連敗
――プロ入りしてから毎年昇段し、1958年2月、18歳で名人戦の挑戦権を争うA級順位戦への昇級と八段への昇段を決めました。いずれも最年少記録で、今も破られていません。
八段は当時としては最高の段位。名人挑戦まで手が届くところまで来て、前途洋々という気持ちでした。
――2年後、A級順位戦で優勝し、大山康晴名人に挑戦しました。20歳での名人戦登場も空前の記録です。
4月の第1局には報道陣が詰めかけました。外国の通信社の記者も来たそうですが、そんなことはこの時だけではないでしょうか。対局には、作ったばかりの和服で臨みました。この時の映像を後で見ましたが、なかなか落ち着いていましたね。
――大山名人は37歳の当時、既に第一人者でした。緊張しませんでしたか。
先輩棋士として尊敬はしていましたが、威圧感はなかったです。大山名人は技術以外の面で駆け引きする「盤外戦術」が有名ですが、僕はある棋士から「加藤さんには通じないんだよ」と言われたことがあります。相手を見て、態度を変えていたのかもしれませんね。
――第1局に勝ち、「20歳名人の誕生」の期待が高まりました。
快勝でした。「いい手を指し続ければ勝てる」という子どもの時の感動を実現できた一局です。「▲5一銀」という手で大山名人が投了したのですが、観戦していた洋画家の梅原龍三郎先生が後日、この手を「素晴らしかった」と褒めてくれました。正直に言うと、私にとっては朝飯前の手なんですが。
――しかし、その後は4連敗を喫しました。
第3局を落としたのが勝敗の分かれ目でした。大山名人の「△6四金」が気迫のこもった手で、逆転負けを喫しました。大山名人とは125局(46勝79敗)対戦していますが、この手が一番印象に残っています。
――初めての名人戦の手応えは。
大差で負けたと思っていましたが、今の目で見ると内容的には接戦ですね。私のシリーズ敗退が決まった第5局、大山名人が記者のインタビューに対して「加藤さんには、いずれ負かされる日が来ると思う」と答えていたことをよく覚えています。サービス精神の表れだと思いますが、こちらが思うより私の強さを認めてくれた面もあったのかもしれません。
――次に名人戦に出たのは1973年。13年後でした。
いずれまた名人戦に出られるだろう、と思っていましたが、甘かったですね。結局、名人を獲得できたのはそのさらに9年後、42歳の時でした。
――一流棋士の階段を上る一方で、学生生活も送っていました。
名人戦に出た頃は、早稲田大学第二文学部の3年生でした。お世話になっていた朝日新聞の方に「視野を広げた方がいい」と勧められて入学したのですが、対局との両立は難しく、しばらくして中退しています。ただ、その後も学園祭で指導対局を何度かしましたし、OBの一員として認めてもらっているのはうれしいことです。
(聞き手・村瀬信也)=全9回
情報源:(人生の贈りもの)わたしの半生 将棋棋士・加藤一二三:3 76歳:朝日新聞デジタル
ほぉ・・・