ふむ・・・
2020.3.29
私と同じ静岡県出身で、沼津市生まれの芹沢博文九段は、若い頃から天才の呼び声が高かった。
19歳で四段になった後は、C級2組で1期足踏みしただけの5年で、A級に登った。
行動は破天荒で、口も達者な氏は奨励会時代、幹事の先生から「芹沢君、○○-○○戦の記録を取ってくれ」と言われた時、「私より弱い人の記録係はやりたくありません」と言って、断ったことがあると聞いた。
「俺の才能は中原(誠16世名人)と同じくらいだったと思うが、彼は人より多く努力しなければ一番になれないと思っていたのに対し、俺は飲む、打つ、買う、をやりながら名人になれると思っていて、その差が出た」と後年、自嘲気味に話していたという。
若い頃から8桁の借金があり、取り立て屋が対局日ならいるだろうと、会館の前で待っていたというから、将棋どころではなかったろう。
氏は大変なアイデアマンでもあり、将棋連盟の広報担当の仕事をしていた時に、第1回の「将棋の日」イベントを大相撲の国技館でやり、8000人の観客を集めたのが、今でも将棋界最大のイベントとなっている。
晩年(といっても40代後半だが)はテレビタレントとして、クイズ番組に出るとか、講演などの仕事をしていた。
ある時「本業よりアルバイトで多く稼ぐようになったら、プロとは言えない。俺の真似なんかするなよ」と言っていたが、棋士でそう器用に稼げる人はなかなかいない。それも一つの才能であったと思う。
酒はやめることができず、「これ以上飲んだら命に関わる」と医者に言われても「酒を止めてまで生きていたくはない」と言って、やめることはなく、51歳で亡くなった。
言いたい放題にも見えたが、よく考えると真理を突いていた言葉が多かった気がしている。
芹沢語録で最も印象に残るのは「四段になって喜んでいるようなヤツ(棋士)は、将棋連盟には要らねえ」だった。
つまり四段は一つの通過点という訳で、これを聞いた我々世代は皆、タイトルは遠く感じたせいか、まずは順位戦のA級を目指したのである。
■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。
情報源:【勝負師たちの系譜】心に残る先輩の言葉 芹沢博文九段「四段で喜んでいるヤツは、将棋連盟には要らねえ」 (1/2ページ) – zakzak:夕刊フジ公式サイト
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— zakzak (@zakdesk) March 29, 2020
それでA級を目指して、実際に昇級できる人がどれだけいるのかって話ではあるが。