林葉と先崎氏(現・九段)。新宿将棋センターには、詰め将棋を解きながら2人で通った(撮影/弦巻勝)

天才女流棋士・林葉直子 「余命1年」と宣告されて

へぇ・・・


2019.10.08 07:00

14才3か月で女流王将タイトルを獲得し(史上最年少)、その後10連覇した林葉直子氏(撮影/弦巻勝)
14才3か月で女流王将タイトルを獲得し(史上最年少)、その後10連覇した林葉直子氏(撮影/弦巻勝)

彼女は輝いていた。将棋界に颯爽と現れた天才少女。大人の好奇な視線を浴びながらも、けらけらと笑い、男たちをなぎ倒していった。ドラマやCMに出演し、小説を執筆すればベストセラーを連発した。

彼女は堕ちた。永世名人との不倫を告白し、将棋界と決別。孤独を埋めるかのように酒をあおった。肝硬変を患い、郷里福岡に戻った。5年前、余命1年を宣告された。

彼女は現在も生きている。

林葉直子、51才。今何を想うのか。元「将棋世界」編集長で、12才の頃から林葉を見てきた作家・大崎善生氏が彼女のもとを訪ねた──。

* * *
今から5年前のことになる。

2014年の正月。1冊の本が出版された。ワイドショーなどで話題になり、やがて私の目にも零れ落ちてきた。それが「遺言」という題名の書下ろしで、著者は林葉直子とある。治療不可能な重度の肝硬変を患い、末期の病床からのメッセージをまとめたもの。

死を間近にしたお騒がせ林葉の、最期の叫びという触れ込みであった。そのとき林葉は46才。もちろん死ぬような歳ではない。しかし手の施しようのない末期の肝硬変で、体重は38キロ、γ-GTPは1200を超えていた。

東京で診てもらっている時から腹には腹水がたまり、医者から「お臍がぴょこんと飛び出したら終わりですから」と言われていた。「あっ、そうですか」と林葉は明るく笑ったが、実はすでに臍は飛び出していた。それが肌着に擦れて痛くて仕方なかった。東京から故郷福岡の病院に転院し、助かるには移植手術するしか道はないと告げられた。

余命、1年。合併症を起こしたら、いつ死んでも不思議のない状態だった。

本の中に編集部に最後の望みを聞かれ、「チャーシューを腹一杯食べたい」と答え、笑うやりとりがあった。さすがに胸が苦しくなった。

完全に死を意識し、人生の瀬戸際にあることを受け入れ開き直っている姿がそこにはあった。

◆1980年──少女は美しく、聡明だった

林葉と先崎氏(現・九段)。新宿将棋センターには、詰め将棋を解きながら2人で通った(撮影/弦巻勝)
林葉と先崎氏(現・九段)。新宿将棋センターには、詰め将棋を解きながら2人で通った(撮影/弦巻勝)

1980年、私は23才の学生だった。親の反対を押し切り札幌から東京へ出て、小説家を夢見て即座に挫折した。

何の当てもなく何の夢もなく、ただ毎日ぶらぶらと飲み歩いていた場末のバーで偶然に将棋と出会った。どうしても勝てないマスターに、どうしたら強くなれるのかと聞いたら新宿将棋センターを教えてくれた。将棋が強くなりたいんだったら、そこに通うといい、ということである。

翌日に新宿歌舞伎町にある将棋センターに足を踏み入れ、その凄まじい光景に言葉を失った。200人以上もの老人や、サラリーマンや、非番のタクシー運転手や、そのほか得体のしれない男たちが、水銀灯に集まってきた蛾のように吸い寄せられ、物も言わずにパチパチと将棋を指しているのである。

そんな場所におよそ似つかわしくない美少女が、毎日のように通っていた。用心棒のように坊主頭の小学生を引き連れていた。その澄み切った美しさをたたえる少女こそが、林葉直子、12才、アマ四段。そして用心棒役のチビが先崎学、小学4年生、同五段。2人で腕自慢の親爺たちをバッタバッタと面白いようになぎ倒していくのだ。しばらくして2人が米長邦雄九段門下の内弟子であることを知った。

2人は師匠の命令で学校が終わってから毎日、この将棋道場に通い腕を磨いていたのだ。道場の猛者連に交ざり、林葉といえばまったく見事なものであった。一手、一手、ほとんど考えない。それでいて指手は必ず急所をえぐる。

将棋を指すために作られた、精緻なロシア製の人形を見ているようだった。薄暗い道場の中にあって、まるで林葉だけは別次元の光に囲まれているようだった。中学1年少女の放つ、美しさ、聡明さ、愛らしさに多くのギャラリー同様、私も見とれていた。

そんなある日、用心棒役の少年が受付でごねだしたことがあった。この少年も、将棋は五段、理論や理屈も子供離れしたところがある。小学4年のくせに愛読紙は日経新聞で、師匠に今はドルを売るべきだと力説して驚かせた。

その先崎が受付でごねている。たまたまその日は成績が悪く、もう一局指させてくれと泣いているのだ。9時までがリミットと師匠に厳命されている。しかし先崎ももう一局指させてくれと、一向に引き下がる気配はない。

小学生の駄々に困り果てた手合い係たち。そこに対局を終えた林葉がツカツカツカという感じで現れた。そして「帰るわよ、先崎」。「僕、もう一局指したい」と泣きながら粘る先崎の頭を、林葉は思いっきり引っ叩いた。なんとも鮮やかな一瞬。その瞬間に先崎は泣き止み、林葉の後を追うように道場を後にした。

実はこの後、新宿将棋センターから駅への地下街で、先崎は林葉のウインドウショッピングに1時間近くも付き合わされるのである。

もちろんそんなことは師匠には秘密だ。「だったらもう一局」と先崎が言うのも無理もないのである。しかし再び林葉は問答無用で弟弟子の頭を引っ叩く。

私も林葉と何局か指した。小説に挫折し、将棋に嵌った私は、ただひたすら朝から、真夜中まで将棋を指し続けていた。林葉は煙草に弱いという噂が常連たちの間でもっぱらだった。中学1年生の女子なのだから、それも当たり前かもしれない。道場は喫煙可で相手に煙草の煙を吹き付けたって反則ではない。

ある将棋の終盤戦で少し悪くなった私は奥の手とばかりに林葉に煙草の煙を吹きかけた。勝つためには反則以外は何だってする。すると俯いて将棋盤を眺めていた林葉が、煙に反応した。切り裂くような鋭い視線で、私をにらみ据えたのである。

◆2019年──赤いワンピースの彼女は現れた

2014年の“遺言”以来、私は常に林葉の動向を気にしていた。新聞紙上に、いつ最悪の報せが流れても、それは仕方がないと諦めていた。その頃にネットに流れた林葉の写真は、それはあまりにもひどいもので、まるで老婆のようだった。その顔を見れば誰もが、これはどうしようもないなと思ったことだろう。

しかし最悪の報は流れないまま半年が過ぎ、やがて1年が過ぎていった。そして何の情報もないまま、いつの間にか5年の月日が流れていた。

その5年間、決して積極的というわけではなかったが、それでも私は林葉を探した。

なかなかコンタクトをとることはできないでいた。それがひょんなことからつながったのが今年の初夏、あるパーティーのあと将棋関係者と飲んでいた。すると酔っ払ったある1人が「ほらっ」と私に携帯を差し出した。

「もしもし」と相手もわからないまま私は言った。「もしもし」と微かに聞き覚えのある甲高い声が響いた。そしてその本人は「林葉です。林葉直子です」と続けるのであった。電話の声を聴きながら、連絡が取れたからには会いに行かなければならないと考えた。将棋界から、あるいは世間から、完全に消えてしまった林葉直子を再発見するのだ。

9月初旬。私は東京の自宅を出て6時間かけて新幹線で博多駅へと向かった。それから林葉と待ち合わせたホテルへ。博多は小雨が降りだしていた。時間通りに林葉は現れた。インドのサリー風の赤いワンピースを身にまとっている。げっそりと頬がこけ、やせ細ってはいるが、末期の肝硬変を5年以上も生き延びてきたのだからそれも無理はない。挨拶をする。二十数年ぶりの再会だ。しかしその大きな時間は、目と目が合った瞬間に綿あめのようにどこかへ溶けていってしまった。

まずは現状を聞く。

5年前に肝硬変と診断され、肝移植しか完治の見込みがないと言われたのだが、今はなんと、もっともよい数値に戻っているという。福岡に戻ってからの完全禁酒と、治療薬療法が功を奏したという。

しかし肝臓病の副作用は全身に及んでいる。3年前にはマンホールのわずかな段差に足をとられて転倒。大腿骨骨折の重傷。それももとは肝硬変による骨粗しょう症が原因という。自宅の近くではあったが、林葉は家まで足を引きずり歩き帰ったという。それから病院にも行かずに自室に引きこもった。姉が車いすを持ってきてくれてそれに乗って過ごしていたが、痛みは引かないまま3か月が過ぎた。

病院へ行くのはいやだったが、ついに諦めた。検査の末すぐに手術。人工骨でつなぎ合わされた。医者からは骨折した場所からいったいどうやって歩いて帰ったのかと驚かれた。不可能でしょう、と。

林葉はけらけらと明るく笑いながら語り続ける。

「真面目な話ね。いつでも死にたい、なんで殺してくれないの、神様、と思うの。じゃあ宝くじを当てるために生かしてくれてるんだとか、変なことも思ったり。肝臓を移植しないと完治はしないと言われてます。でも、して治る人もいれば、ダメな人もいる。どっちもどっちならしなくていい、と。最近は、何もしてないのに生きてるのはありがたいと思うようになったのよ」

将棋連盟を退会した林葉は小説執筆や芸能活動に勤しみ、2004年に六本木にカレー料理屋を開店した。辛いもの、特にカレーが大好きだった林葉が、毎日のように通っていたカレー料理店でネパールの女の子と出会い、だったら一緒にやりましょうかという話になった。ネパールやインドのシェフを雇い、料理はまったくのまかせっきりで、それが奏功して店は上々だった。

その頃から林葉に次々と体の異変が襲い掛かる。カツレツをかじったときに歯ぐきから血が出て止まらなくなったのが始まりだった。夜中にこむら返りが起こり飛び上がる。やがて体がだるくて立ち上がることも困難になる。腹部が膨れ上がり、そして血便。ついに病院に行った。そして末期の肝硬変を宣告される。

■大崎善生/1957年、北海道札幌市生まれ。早稲田大学卒業後、日本将棋連盟に入社。「将棋世界」編集長を務める。2001年退社して作家活動に。主な著書に『聖の青春』『将棋の子』『いつかの夏──名古屋闇サイト殺人事件』など。

※女性セブン2019年10月17日号

情報源:天才女流棋士・林葉直子 「余命1年」と宣告されて・前編(NEWS ポストセブン) – Yahoo!ニュースコメント

情報源:天才女流棋士・林葉直子 「余命1年」と宣告されて・前編|NEWSポストセブン


2019.10.08 07:00

失踪騒動について、将棋会館で記者会見を開いた(1994年、写真/共同通信社)
失踪騒動について、将棋会館で記者会見を開いた(1994年、写真/共同通信社)

彼女は輝いていた。将棋界に颯爽と現れた天才少女。大人の好奇な視線を浴びながらも、けらけらと笑い、男たちをなぎ倒していった。ドラマやCMに出演し、小説を執筆すればベストセラーを連発した。

彼女は堕ちた。永世名人との不倫を告白し、将棋界と決別。孤独を埋めるかのように酒をあおった。肝硬変を患い、郷里福岡に戻った。5年前、余命1年を宣告された。その事実を『遺言』と題された本に著し、ワイドショーなどでも話題になった。

彼女は現在も生きている。

林葉直子、51才。今何を想うのか。元「将棋世界」編集長で、12才の頃から林葉を見てきた作家・大崎善生氏が彼女のもとを訪ねた──。

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◆1979年──そこは女子はいちゃいけない場所だった

病の発覚に前後して福岡の父親が死んだ。将棋を教えてくれた父であったが林葉にとってはどうしようもない父親だった。警察官で外面的には生真面目なのだが、家庭内での暴力がひどい。

中学1年で米長家(米長邦雄永世棋聖)の内弟子となり東京へ出た林葉は、貯金通帳や印鑑をすべて父親に預けた。そこには後にいくつもタイトルを獲り、また20冊以上ものベストセラー小説を書いた、賞金や印税が振り込まれていた。それらをすべて勝手に使われてしまったという。目的は女遊び。

福岡の将棋大会で男子(森下卓九段)を破り優勝し、東京へ出た林葉は奨励会(※)試験に合格し6級で棋士生活をスタートさせていた。女流棋界には進まずに奨励会員として棋士を目指すというのが、米長の弟子となる条件だった。

ある日、千駄ヶ谷の将棋会館で小さな事件が起こった。

林葉は奨励会員、私はあの袋小路のような将棋道場から奇跡のように抜け出し、将棋連盟の職員として働き始めたところだった。将棋会館の廊下で騒ぎ声が聞こえる。

(※)奨励会
プロ棋士になるためには、奨励会という養成機関に入り、昇級、昇段していかなければならない。四段にまで進めばプロ。そのためには、年2回の三段リーグで上位2名に残らなければならない。一年でたった4人しかプロ棋士になれない仕組みだ。また年齢制限もある。〈満21才の誕生日までに初段、満26才の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は退会となる〉(日本将棋連盟公式サイト)。ちなみに、女性で三段リーグを勝ち上がったプロは、過去に例がない。

何人かの男の職員がバタバタと走っていくので私もついていった。するとどうだろう。将棋会館の2階と3階の中間の階段の踊り場で、大男が林葉を殴りつけている。男性職員が間に入り必死に止めようとしている。その上から男のパンチが飛ぶ。男は林葉の父で、奨励会が行われていたその日に、福岡から出てきて林葉を対局室から引っ張り出したのだ。彼女は何かギャーギャーと叫んでいる。

その頬へ父親の容赦のないパンチが飛ぶ。その光景を編集部員となったばかりの私は愕然としながら見ていた。しばらくもみ合いが続いたのだが、もっと驚いたのは林葉が、何人かでとり押さえる形になった父親の脛をめがけて、職員の足の隙間からガンガンと蹴りを入れていたのである。林葉は口を切った程度だったが、父親はひどい打撲を負ったのではないだろうか。

林葉の奨励会生活は2年半で終わりを遂げる。その間に昇級もあったが、80人の男の中に女子が一人、大変に窮屈な思いを強いられたという。今も昔も将棋界は、男の社会だった。

「いちゃいけない場所にいた感じ。私が(記録係として)30秒、40秒と秒読みをすると、皆が振り返るのよね。私に負けたら坊主にさせられる、という話も聞いたな。休憩時はよく、(会場に)1つだけあった女子トイレにこもって『花とゆめ』なんかを読んでいたんだけど、まさか女子が入っていると思わないから、男性棋士が入ってきたこともありました」

結果的に将棋に負け癖を植え付けられただけだったのではないかと林葉は言う。師匠のすすめにより林葉は奨励会を退会し女流棋士としてデビューすることになる。するとどうだろう。奨励会時代の屈折をバネにしたかのように林葉はあらゆる棋戦で勝ちまくる。あっという間に女流タイトルを総なめにしてしまった。まだ高校生。女流棋界始まって以来の大スターの誕生といってよかったろう。

世間の目は一人の美少女棋士に集まり、未来は明るく輝いていた。その後林葉は女流王将を10連覇という偉業を成し遂げる。まさに向かうところ敵なしだった。

◆1994年──彼女はアイルランドにいた

林葉が女流王将10連覇を達成したというニュースは大きく流れたが、しかし私に伝わってくる情報はあまり芳しいものではなかった。新宿で酒ばかり飲んでいるという。

10連覇を達成した林葉は、敵らしい敵もなく目標を失ってしまったのではないか。絶対的女王なるがゆえの孤独感が漂い始めていた。

1994年のある日、真夜中に私の家の電話が鳴った。出ると親しい関西の棋士で「林葉さんが将棋連盟を脱会しようとしている。自分にはもう止められない。大崎さん、何とかしてくれんか」と泣いている。聞いてみると林葉は翌々日の対局をすっぽかして海外へ脱出しようとしているという。対局は棋士にとって至上のものであり、どんなことがあってもそれをすっぽかすことなどできない。即座に退会を宣告されても致し方ない。林葉はそれを覚悟のうえで決行しようとしているのだ。

彼女をこのまま退会させるわけにはいかない。酔い泣きする棋士に私は言った。とにかく林葉に休場届を書かせてそれを明日の午前中に新宿に持ってくるようにと。私は強い信頼関係にあった常務理事に電話をして、翌朝、彼女と急遽ホテルで会うことになった。

林葉は髪をバッサリとショートカットに切り、野球帽のような帽子を被っていた。サングラスをした顔が青白く弱弱しく体もやせ細っている。封筒に入れた休場届を理事に預け、それで何もかもが終わるはずだった。

結果的に林葉はすべて私の指示に従ってくれた。休場届を理事が受け取ったのだから、それは正式な休場ということになる。何か精神的な悩みがあるのかと感じさせたが、聞くことは躊躇われた。

その日の午後、林葉は成田からイギリスへと一人旅立っていった。休場届は理事の手によって総務課に届けられ受理されていたので、事務手続き的には何の問題もない。

しかし翌日のスポーツ紙にいきなり一面で“林葉直子、失踪”と大見出しが載り、それに各テレビ局、週刊誌が後追いして、あっという間に大騒動となってしまった。

私は行きがかり上、将棋連盟内の林葉捜索係のような感じで、毎日、棋士を中心にあらゆる人脈を使って探し回ったが、誰も行先はわからない。ただ一人、林葉行きつけだったスナックの仲の良いママが「イギリスからアイルランドに渡った。今はコークという町にいる」と教えてくれた。

真夜中だった。出版社の会議室から、連日の徹夜でふらふらになった頭で私は考えた。アイルランドのそんなに大きくない街だったら、日本人が泊まるホテルは限られているだろう。順番にかけていけばいい。

KDDIのオペレーターが話の分かる女性で、街中のホテルに電話してもらった。しばらくすると、彼女から「どうぞお話しください」。

そして「もしもし」と聞き覚えのある甲高い声。なんと林葉本人とつないでくれていたのである。林葉は帰国し記者会見を開き、手記を発表し騒動は沈静化していった。

しかし、数年後、将棋界をひっくり返すような大事件が起こる。中原誠永世十段との不倫を週刊誌に告白した。しかも留守番電話に録音されたテープを流すなど強烈な内容だった。こよなく尊敬される永世名人を週刊誌に売ったのだから、覚悟の上だったのだろう。そして彼女は、将棋界と完全に決別した。

だが、そのことについて振り返らせても、今の彼女は後悔や、ましてや憤りなどもまったく見せず、「あの人は、本当に将棋を指すために生まれてきたっていうようなきれいな指先だったんですよ」としか語らない。

失踪の頃、林葉はすでに中原永世十段と付き合っていて、妊娠したと勘違いしてイギリスで手術を受ける決意をしていたのだ。しかしほどなくそれは間違いとわかり、かねてから興味のあったアイルランド旅行に切り替えたのである。

◆2019年──「やりたいことはやりつくした」と彼女は言う

将棋界に留まらない活躍をしていた林葉直子氏(写真/共同通信社)
将棋界に留まらない活躍をしていた林葉直子氏(写真/共同通信社)

何もかもが懐かしいことばかりで、ときどき林葉の目に涙が浮かび、私も幾度となく胸が一杯になった。新宿の煙の立ち込めるあの道場で出会ってから40年の月日が流れている。

林葉は今、完全禁酒と減塩と野菜中心の生活、そして8種類の薬を飲むことで生き延びている。5年前に出回った写真は、いつ死んでも不思議じゃない雰囲気だったが、目の前にいる彼女はやせてはいるものの目に輝きがあり生気に溢れている。

「将棋しようよ、将棋」と何度も挑まれるが、とても私のような者が敵う相手ではない。

「やりたいことはすべてやりつくしたからもういつ死んでもいい」とけらけらと笑う。

その天性の明るさは何も変わっていない。40年前と変わったことがあるとすれば、私が煙草をやめ、林葉に煙を吹きかけられることだろうか。

ホテルから近いレストランで食事をとった。すると今、将棋界を騒がせている新星・藤井聡太にも話が及んだ。

彼女は、強さを備えた棋士だけが醸し出す雰囲気を17才に見つつも、「でも、羽生君のほうが生意気だったよね。目が大きくて、対局しながら、こう相手を結構見上げる、にらむような感じで見るからね」と笑う。続けて、まだ10代の羽生善治を連れて、カラオケに行った話を語った。私のワインに手を伸ばして横取りしようとしては怒られる。

林葉は、終始ご機嫌だった。最後に本当に後悔していることはないのかと聞いた。すると思わぬ言葉が返ってきた。

「やっぱり将棋かな」
「将棋?」
「うん。もっと将棋を一生懸命やるんだった」

私たちは福岡の夜の街で別れた。

「また会えるかなあ」と林葉は聞いた。
「もちろん」と私は答えた。

■大崎善生/1957年、北海道札幌市生まれ。早稲田大学卒業後、日本将棋連盟に入社。「将棋世界」編集長を務める。2001年退社して作家活動に。主な著書に『聖の青春』『将棋の子』『いつかの夏──名古屋闇サイト殺人事件』など。

※女性セブン2019年10月17日号

情報源:天才女流棋士・林葉直子 「余命1年」と宣告されて・後編(NEWS ポストセブン) – Yahoo!ニュースコメント

情報源:天才女流棋士・林葉直子 「余命1年」と宣告されて・後編|NEWSポストセブン


2019.10.08 07:00

林葉直子(写真は2010年)
林葉直子(写真は2010年)

元女流棋士でタレントの林葉直子(46)が21日、『ノンストップ!』(フジテレビ系)の取材に応じ、重度の肝硬変であることを告白するとともに、現在の深刻な病状を明かした。

2006年に肝硬変を患ったという林葉は、現在の病状について「肝硬変で肝不全に近い」と告白。「治る見込みがない。ここまで(肝不全に近い状態に)なったら、もうダメ」といい、「いつ死んでもしょうがない感じ」とつらい心境を明かした。

「アルコール性肝硬変」という林葉。最初の病状については「口から血が出てきた」といい、現在は「血小板が少なすぎてお腹がパンパン」だという。原因は酒の飲み過ぎで、きっかけは29歳の時、世間を騒がせた不倫騒動だったと明かし、「ワイルドターキーを1日1本飲んで、死ぬんじゃないかと思った」と振り返っていた。

林葉は、同日に更新した自身のブログでも「たぶん、そんなに長くはないと思いますが、なるべくいろんなことをここで書いていきたいと思います」と病状を綴っていた。

情報源:元女流棋士・林葉直子、重度の肝硬変を告白「治る見込みない」 | ORICON NEWS


2015年10月26日10時29分

林葉直子
林葉直子

重度の肝硬変を患い闘病を続けている元女流棋士でタレントの林葉直子(47)が、棋士時代の性欲旺盛だったエピソードを赤裸々に明かした。

人気女流棋士として活躍していた当時は不倫騒動などで週刊誌やワイドショーをにぎわした林葉。現在は病気療養中だが、その色欲は衰えないようで、ブログでは度々、気になる男性芸能人やスポーツ選手について茶目っ気たっぷりにつづっている。

26日に更新したブログでは「待望の冬が来たんですから。皆さん。スケートですよ、スケート。フィギュアですよ、フィギュア。日本の冬、羽生の冬がいよいよ到来しました!いやん、羽生さま~、私の白い恋人、1年間生き長らえた甲斐がありましたワン!あなたのお姿を見るだけで、私の▽(ハート)はムッシュムラムラですもん!これからどんどん楽しくなりますね」と、大好きな羽生結弦選手への思いをつづった。

そしてさらに現在注目しているのがラグビーの五郎丸歩選手とのこと。「羽生くんとはまた違った野性味に私のムッシュはムラムラしますぜ、ガォ~~!また、彼のいいところはあのカンチョーみたいなお祈り。精神がおちつくジンクスみたいなものだと聞いてますます好きになりましたね。繊細なハートを持っている証拠ですからね」とつづった。

自身も棋士時代、対局の際には五郎丸選手のように“お守り”を携えていたという。それは扇子で、一般的にほかの棋士は「夢」や「忍」などと好きな言葉を書くそうだが、林葉は「業の深い私はそんな一言二言では満足できず、なんと般若心経を書かせていただきました。色即是空、空即是色 ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー そうするとスッと気持ちが落ち着いてくるんですよ」と般若心経を書いた扇子をお守りにしていたとのこと。「ところが、当時の私は対局が終わると“色即エッチ”となって煩悩の限りを尽くしてしまったわけです。嗚呼、若気の至り!」。それも般若心経の霊験だったか--?

情報源:林葉直子、棋士時代は対局後に“色即エッチ”明かす – 芸能 : 日刊スポーツ



子供は親を選べない・・・