へぇ・・・
唐招提寺は、ゆかりの著名人が揮毫(きごう)し、奉納した宝扇(ほうせん、ハート形のうちわ)のうち約130人分の扇面を毎年、屛風(びょうぶ)にしている。米長邦雄の揮毫も寺で生き続ける。将棋の名棋士と古都・奈良の名刹(めいさつ)は、不思議なエピソードで結びついている。
話は1992年にさかのぼる。米長は唐招提寺の鑑真和上坐像(がんじんわじょうざぞう、国宝)の前に座った。
米長が自著「運を育てる」で「最も尊敬する人物」と記した鑑真和上(688~763)は中国唐代の高僧。遣唐使船で唐を訪れた日本の留学僧から招請を受け、渡日を決意したが、渡航を5回試みて失敗。視力を失ったが、6回目で日本の地を踏んだ。12年がかりで目標を達成した「不屈の人」だ。
そのころ米長は、多くのタイトルを奪取しながら、最も歴史があるビッグタイトル「名人」には手が届かないでいた。1976年の初挑戦から79年、80年、87年、89年、91年の計6度、名人に七番勝負を挑んだが、うち5回は中原誠(70)=十六世名人=に、1回は谷川浩司(56)=十七世名人資格保持者=に敗れた。
鑑真和上坐像の前に座った後の夕食の席で米長は「和上像の前で突然、鳥の声が響いた。すごかったね」と漏らした。「何も聞こえなかった」と不思議がった同行者は「迦陵頻伽(かりょうびんが)の声かも」。迦陵頻伽とは「仏教で極楽にいるという想像上の鳥。妙(たえ)なる鳴き声を持つとされる」。米長は吉兆と受け止めた。
翌93年春、米長は7度目の名人挑戦権を勝ち取った。相手は5度退けられた中原名人。5月21日、米長は4連勝で悲願の名人位に就く。49歳11カ月での名人奪取は史上最年長記録だ。
米長は寺に「お礼をしたい」と申し出たが、長老は「お金は結構です。お豆腐でもいただけましたら」。米長はお気に入りの長野県の店から毎月1回、豆腐を贈った。修行僧や職員が昼食時の楽しみにしたという豆腐の贈り物は、十数年続いた。
「わー、なつかしいなあ」
米長の名を告げると、副執事長の石田太一(51)は華やいだ声をあげた。「寺の金堂(こんどう)の平成大修理の時も、米長さんは『鑑真和上のお寺の一大事』と言って、相談に乗ってくれました」
米長は2012年、69歳で逝去したが、米長の次に日本将棋連盟会長を務めた谷川が毎年、揮毫したうちわを奉納し続けている。「米長先生に頼まれたわけではない」というが、米長の思いを谷川が引き継いだようにみえる。「名人になりたいという思いを長い間、抱き続けた米長先生はすごかった」。谷川は、しみじみと話す。今月7日、将棋名人戦第3局の前夜祭が奈良ホテルであり、谷川が駆けつけ、華を添えてくれた。「来る途中で唐招提寺にお詣(まい)りしましたよ」と言って、ニコッと笑った。
唐招提寺の東側には秋篠川が流れ、田んぼも広がる。米長は、自然を愛(め)でながらの散歩が大好きだった。今も、境内では優雅に鳥が飛翔(ひしょう)し、可愛らしい鳴き声が絶えない。=敬称略(佐藤圭司)
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〈米長邦雄(よねながくにお)〉 1943~2012年。山梨県出身。将棋棋士。タイトル獲得19期、棋戦優勝16回。明るいユーモアから「さわやか流(りゅう)」、非勢から逆転勝ちする姿は「泥沼流(どろぬまりゅう)」と称された。日本将棋連盟会長も務めた。
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唐招提寺(奈良市五条町13の46、電話0742・33・7900)は近鉄西ノ京駅から徒歩約10分。午前8時半~午後5時(受付は午後4時半まで)。拝観料は大人600円など。
鎌倉時代に寺を再興した覚盛(かくじょう)上人の命日にあたる5月19日は、宝扇をまく「うちわまき」の日。蚊も殺さなかった上人をしのんで、奈良・法華寺の尼僧が「せめてうちわで蚊を払って差し上げよう」と、うちわを供えた故事にちなむ。扇面を集めた屛風も公開予定だ。
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鑑真和上坐像(国宝)は6月5~7日に公開予定。2013年に制作された「鑑真大和上御身代(おみが)わり像」は毎日参拝可。
米長邦雄さん著の文庫本「人間における勝負の研究」と揮毫入りタオルのセットを抽選で10人に。http://t.asahi.com/koto別ウインドウで開きますから申し込むか(朝日新聞デジタル会員の登録〈無料〉が必要)、はがきに住所、氏名、年齢、電話番号を書き、〒530・8062 大阪北郵便局私書箱526号「米長」係へ。23日必着。
情報源:米長邦雄が尊敬した鑑真和上 (古都ものがたり 奈良):朝日新聞デジタル
米永棋聖の写真、何時の奴だよ・・・
米永名人は、1993年の第51期だけだが。