色々来てるな・・・
プロ野球の広島で、当時、大リーグを超える連続試合出場の記録を作り、「鉄人」と呼ばれて国民栄誉賞も受賞した衣笠祥雄さんが23日夜、大腸がんのため亡くなったことについて、衣笠さんとゆかりのある人からは悼む声が次々と寄せられています。
山本浩二さん「本当にありがとうと言いたい」
現役時代、衣笠祥雄さんとともに広島の中心選手として5回のリーグ優勝の原動力となった山本浩二さんは、24日午後、都内で取材に応じ「先週、テレビで巨人戦を解説をしていたのを聞いて、声に元気がなかったので心配していた。5月3日にも解説の予定があったようで、野球が大好きな衣笠らしいと思ったが、亡くなるのはまだ早いし、つらい」と絞り出すような声で話していました。
広島の黄金時代を支えた衣笠さんの背番号「3」と、山本さんの背番号「8」は広島の永久欠番で「若い頃から張り合ったよきライバルだったが、それがあったから自分も成長できたし、彼もそうだったと思う。痛いところがあったり骨折したりしても、きぜんとしてグラウンドに出てフルスイングしているのを見ると、自分も痛いとは言っていられなかった。彼には本当にありがとうと言いたい」と話していました。
古葉元監督「涙がこみ上げてきます」
衣笠祥雄さんらを擁して球団初のリーグ優勝を果たすなど、広島の黄金時代を築いた元監督の古葉竹識さんは、NHKの電話取材に対し「ことし1月下旬に会った際、声に少し元気がなく『体に注意しろよ』と言ったら、『まだまだ元気です』と返してくれたので、まさかという思いで涙がこみ上げてきます」と話し、突然の訃報にショックを受けている様子でした。
また衣笠さんなどを擁して球団初のリーグ優勝や日本一を達成した当時を振り返り、「ファンに喜んでもらうために、必死になってチームを引っ張ってくれた姿が印象に残っています。監督としてやれたのは、君たちのおかげだと感謝の気持ちを伝えたいです。これからも広島の選手たちを見守っていてほしい」と話していました。
ソフトバンク 達川ヘッドコーチ「野球が大好きな人」
プロ野球 広島で衣笠さんとともにプレーしたソフトバンクの達川光男ヘッドコーチは「レギュラーをつかんだ年に“タツじょうずになったな”と言われて自信がついたのを覚えています」と振り返りました。
衣笠さんが試合に出場し続けていたことについて「“痛いとか、かゆいとか言うからけがになる。黙っていればいい”と話し、毎日、試合に出続けた体力はすごい。オフでも大リーグの中継を見るくらい、野球が大好きな人で、こんなにも野球を愛している人は衣笠さんがナンバーワンでした」と話していました。
大野豊さん「思いやりのある大先輩だった」
亡くなった衣笠さんとともに広島で日本一などを経験した、NHKプロ野球解説の大野豊さんは、「若いころからお世話になった方なので、非常にショックで残念な思いだ。元気に過ごして、衣笠さんの野球への思いを伝えてほしかった」と話していました。
そのうえで大野さんは「尊敬できる方だった。当時は怖い先輩が多い中、怒られたことは1回もなく、いつも笑顔で励ましてくれた。野球人として見習うべきところがたくさんあった」と振り返りました。
そして「自分が駆け出しのころに『大野、お前のまっすぐは速いんだから、まっすぐでどんどん勝負しろ』と激励してくれた。選手のことを見てくれた思いやりのある大先輩だった」と話していました。
中日 森脇野手チーフコーチ「すばらしい人格者だった」
亡くなった衣笠さんと現役時代、広島でチームメートだった森脇浩司野手チーフコーチは「自分が近鉄から広島に移籍した昭和59年のキャンプで、1か月間一緒の部屋で生活したので、そのときの思い出がよみがえってくる。時間を共有した1人として、いろんなことを学ばせてもらい、感謝している。痛みには鈍感な人でも、生活するうえでは細かいところまで気を配る人だった。選手としては言うまでもなくすばらしいが、人としてもすばらしい人格者だった。残念でならない」と話していました。
元広島 小早川毅彦さん「赤ヘル軍団の象徴だった」
NHK野球解説で元広島の小早川毅彦さんは、入団から4年間、衣笠さんとともにプレーしました。
衣笠さんが亡くなったことについて、小早川さんは「信じられなくて非常にショックを受けている。プロとしての姿勢や厳しさを教わった大恩人であり、昭和50年代の『赤ヘル軍団』の象徴だった。バッティングは豪快だったが、練習の時には、細かい部分まで自分なりに研究していたのを覚えている」と話しました。
衣笠さんとの思い出について「プロに入ったとき、ポジションがファーストとサードで衣笠さんと重なっていたので一緒にノックを受けていた。衣笠さんから『これを使え』とファーストミットとサード用のグラブをもらったが、もったいなくて使えず、今でも大事に取っていて、たまに取り出しては当時を思い出していた」と打ち明けました。
さらに「プロはゲームに出て価値があるが、衣笠さんから出続ける厳しさ、難しさ、そして、ファンに試合を見てもらうために日頃の練習や私生活からもよいプレーができるように24時間、絶えず取り組むことを身をもって教わった。今でもカープの伝統として受け継がれていると感じているし、衣笠さんにはお礼の言葉しかない」と話しました。
広島 緒方監督「優勝を心から喜んでくれた」
広島の緒方孝市監督は試合前に取材に応じ「突然の訃報に信じられない気持ちです。体調がすぐれないという話は聞いていなかったので、本当にびっくりしています。おととし25年ぶりに優勝したときに心から喜んでもらって『常勝チーム、強いカープを作ってくれ』という言葉を頂いたのを覚えています。ことしもしっかりカープの野球をやって、リーグ優勝と日本一の報告ができるよう、われわれも精いっぱい戦っていくだけです」と話していました。
長嶋茂雄さん「ナイスガイだった」
亡くなった衣笠さんと、現役、監督ともに対戦した経験がある巨人の長嶋茂雄終身名誉監督は「『鉄人』と呼ばれたとおり体の強い選手で、私が監督1年目の昭和50年には、山本浩二さんと広島を引っ張り初優勝を成し遂げられたのが印象深い。芯が強く、優しい心を持っているいい男、ナイスガイだった。衣笠さんがテレビ解説された今月19日の野球中継を見ていたが、声にいつもの元気がなく、心配していた。ご冥福をお祈りします」と球団を通じてコメントしました。
ソフトバンク 王球団会長「後輩に受け継がれている」
ソフトバンクの王貞治球団会長は「鉄人といわれた衣笠さんがこんなに早く亡くなられるとは信じられません。けがを乗り越え達成した連続試合出場記録は、絶対に続けるんだという強い気持ちがあったからですし、その気持ちは後輩にも受け継がれていると思います」と球団を通じてコメントしました。
元近鉄 鈴木啓示さん「記録にも記憶にも残る選手だった」
衣笠さんと同じ昭和22年生まれで、日本シリーズで昭和54年と55年に対戦した元近鉄のピッチャー、鈴木啓示さんは「ニュースで亡くなったことを知ったときは、本当に残念だった。あまりにも早く、信じられない」と現在の心境を語りました。
そのうえで「衣笠さんは、自分の狙い球を決めたら思い切り振ってくるタイプで、三振かホームランかという思いきりのいいバッティングが印象に残っている。打たれても『しょうがない』と思えるような、記録にも記憶にも残る選手だった。心残りはあったと思うが、『衣笠さんお疲れさま』と声をかけてあげたい」と話していました。
北別府さん「サードに衣笠先輩いるだけで安心した」
現役時代、広島で衣笠さんと同じ時期にプレーし、エースとして活躍した北別府学さんは「現役時代、完投したときには真っ先に握手を求めてくれて、打たれたときにも声をかけてくれるなど、サードに衣笠先輩がいるだけで安心したものでした。4年前に名球会でハワイに行ったときに『2人で飲もうか』と誘ってくれたときのことがいちばんの思い出です。尊敬する偉大な先輩で、あまりに急なことなので信じられないような気持ちです」と所属事務所を通じてコメントを出しました。
阪神 金本監督「びっくりしている」
衣笠さんが亡くなったことについて、阪神の金本知憲監督は「名球会のイベントなどでもたびたびお会いしていて元気だと言っていたので、びっくりしている」と話しました。
そのうえで「連続フルイニング出場の最多記録が止まったときも『記録は途切れたがプレーでがんばれよ』と声をかけていただいた。少々のケガでも休まず、出続けることができたのは衣笠さんの存在が大きかった」と話しました。
さらに「1月には星野仙一さんも亡くなられたがそれぞれの先輩方の思いを受け継いでいきたい」と話していました。
巨人 高橋監督「広島の象徴」
亡くなった衣笠さんについて、巨人の高橋由伸監督は「衣笠さんは山本浩二さんと一緒で広島の象徴であり、広島というとパッと浮かぶ存在でもあった。元祖『鉄人』としても印象深い。今月19日の横浜戦のとき、衣笠さんが仕事で来られていたが、お会いすることはできなかった。去年かおととしの横浜戦のとき横浜スタジアムでお会いしたのが最後になってしまった」と話していました。
情報源:衣笠祥雄さん死去 ゆかりのある人から悼む声 | NHKニュース
実は午前中打合せの最中からもしかしたらという知らせが入っていました。
衣笠祥雄さんが亡くなられました。
言葉もありません。
衣笠祥雄さんとの思い出は沢山ありすぎるくらいです。
すいません、まだ信じられなくて何も書けません。
— 北別府 学 (@m_kitabeppu) April 24, 2018
お悔やみ申し上げます。