医者の指導を受けて、専門家の管理下でやらないと。
国民の2人に1人が患っているとされるアレルギー。特に子どもにとって深刻なのは「食物アレルギー」です。しかし、この十数年で食物アレルギーの治療は大きく進歩し、症状が改善した子どもたちも増えてきています。そうした子どもたちがみずからの体験を語る催しが相次いで開かれ、大きな反響を呼んでいます。食物アレルギーを乗りこえて…子どもたちは何を語ったのでしょうか。(千葉放送局記者 山本未果)
「神様はいけずやな」
ことし1月、食物アレルギーの患者の会が大阪府で開いた講演会。
アレルギーを克服した中学生から大学生までの男女4人が壇上に立ち、いま、治療に取り組んでいる子どもや親たちを前に、みずからの体験を語りました。
その1人、田野ちなりさん(14)。
生後まもなく粉ミルクを飲んでショック症状を起こしたほか、卵や小麦、甲殻類など多くの食品にアレルギーがありました。
「みんなと同じものを食べられなくて、ずっと『神様はいけず(いじわる)やな』と思っていました」と当時を振り返りながら、語り始めました。
“食べることを目指す”治療へ
食物アレルギーはかつては、血液検査などで原因食物を判断し、疑いのあるものは一切食べない「完全除去」と呼ばれる管理が行われてきました。
この治療法をめぐっては、患者によっては、食事が大きく制限され、成長に影響が出るなどの問題が指摘されていました。
こうした中、12年前の平成18年、治療の方向性が大きく変わりました。病院に入院して、アレルギーの疑いのある食品を実際に食べ、原因食物の確定と、安全に食べられる量などを診断する「食物経口負荷試験」と、その結果にもとづいて、医師などが、原因食物も安全な範囲で食べられるよう指導する「栄養食事指導※」が保険適用になりました。
定期的に負荷試験を行い、安全が確認されれば、食べる量を増やしていく方法で、従来の“食べない”治療から、“食べることを目指す”治療になったのです。
※注:食物アレルギーの治療には、「経口免疫療法」と呼ばれるものもありますが、これは、専門の医師の判断・指示で、原因食物を毎日あるいは定期的に食べ続けることで耐性の獲得を目指すものです。早期に耐性の獲得が期待できない場合の研究的な治療とされ、負荷試験で「安全に食べられる」と診断された量を超えて積極的に食べていくことから、専門家の間では、「食物アレルギーの一般診療としては推奨しない」とされています。“治りたい”目標の大切さ
田野さんの治療は、医師の指導のもと、「卵1グラム、そうめん1センチ」から始まりました。負荷試験で、時折強い症状が出ることもありました。
そうしたつらい治療を乗り越えるため、田野さんが行ったのは、将来、何を食べられるようになりたいか、「目標」を立てることでした。
目標としたのは、なかなか克服できなかった半熟の目玉焼きなどが乗った「ロコモコ」を本場のハワイで食べること。
食物アレルギーの患者にとって、海外旅行には大きなハードルがあります。機内でショック症状を起こさないか、海外の食事で、言葉が通じない場合原材料を確かめることができるか、万が一の場合の救急対応はどうするのか…。
そうした心配をすべて乗り越えて、何でも食べられるようになりたいという大きな目標でした。
それから4年。アレルギー症状を抑えるため肌のスキンケアを徹底したり、ぜんそくなどの治療にも取り組みました。
その結果、田野さんは卵などが食べられるようになり、去年12月、ハワイでロコモコを食べるという目標を達成できました。
田野さんは、講演会で、「最初は、夢にもならないくらい大きな目標だったけど、目標があったから頑張れた。ハワイに行けて、ものすごく達成感を感じ、改めて『食べられるようになったんだ』と実感できました」と幼い患者たちに語りかけました。
治療中の子どもたちは
田野さんの話を聞いて、勇気づけられた子どもがいました。
中嶋汐央くん(8)です。
赤ちゃんのころから症状が出て、今も給食の牛乳などは口にしていません。
「自分もアレルギーを治せるんだ」と感じた中嶋くんは、自分も目標を立てることにしました。
「憧れのソフトクリームを食べられるようになりたい」
中嶋くんは、「ソフトクリームは、食べたことがないし、とろとろしてておいしそうだから、食べてみたい。夢は絶対かなうんだと思った」と話してくれました。
母親によると、今後、成長の様子を見ながら、食べられる量を増やせるよう、治療を続けていくということでした。
体験談は親の支えにも
去年から始まった食物アレルギー治療の当事者たちの体験談は、治療をサポートする親に向けても大きなエールとなっています。
ことし2月に神奈川県で開かれた集会で講演した大学生の栗田さえりさんは、「治療を続けていくには、周囲の理解が欠かせず、母親のサポートがとても大きかった」と話しました。
さえりさんは小学生のころ、友達と同じものが食べられず、「相手に気をつかわせてしまうのではないか」、「迷惑をかけたくない」と人と関わることに消極的だったと言います。
母親の洋子さんは、アレルギーがあることでいろんな可能性をあきらめることなく友達の輪をもっと広げてほしいと、さえりさんのアレルギーについて説明する絵本を手作りしました。
絵本を手に学校に出向き、友達やその親の前で、さえりさんのアレルギーの詳しい症状や、友達にはどういう点を注意してほしいかを説明し、理解を求めてきました。
さえりさんは、「お母さんが絵本を作っていなかったら友達の家にも行けなかっただろうし、ずっと家にいたかもしれない」と感謝の思いを話していました。
講演後、さえりさんに「私の娘も同じです」と話しかけたのが堀口真知子さんでした。
小学2年生の娘に重いアレルギーがあり、それまで、学校では、周囲にアレルギーのことを詳しく伝えてきませんでした。
堀口さんは、さえりさんの話を聞いて、早速、娘の友達にもっとアレルギーのことを知ってもらおうと、行動に移しました。
友達を家に招いて、娘も食べられるお菓子作りを一緒にしようと娘に提案したのです。
一緒にスーパーに材料の買い出しに行った堀口さん親子は、「米粉でパンを作り、レーズンなどを飾ろう」と楽しそうに話し合っていました。
堀口さんは「さえりさんの明るい姿を見られて、アレルギーの子の未来も、ああいうふうに明るく育っていけるんだなって思いました。自分ももっと積極的に動いて一緒に頑張って、成長してほしい」と話していました。
治療のゴール さまざまだけど
20代のアレルギーの息子がいる母親に話を聞くと、「子どもが小さいころ、食物アレルギーの講演会では、厳しい食事制限の必要性ばかり話されて、これをずっと続けるなんてこの子の将来はどうなってしまうんだろうと暗い気持ちになった」と話していました。
そういう意味で、“食べることを目指す”治療を経験した子どもたちが成長してみずから語れるようになり、それを聞いた治療中の親子が「つらい治療の先にも光があるのではないか」と感じられるようになったことには大きな意味があると思います。
子どもの食物アレルギーは、症状がどこまで良くなるか、ゴールは人によってさまざまで、中には、重篤な症状が出るため、治療を進められない人もいます。
今回取材した「語り始めた子どもたち」のなかには、アレルギーを起こす食べ物を食べることはおろか、触ることもできなかったところから治療を始めた子どももいました。
現在の改善の度合いもさまざまでしたが、完全に治っていなくても、アレルギーとうまくつきあいながら生活を送っている現状をいきいきと話している様子が印象に残りました。
冒頭で紹介した田野さんと私が最初に出会ったのは今から6年前、田野さんが小学3年生の時でした。
ショック症状に備えて、常に緊急の注射薬を持ち歩き、食材を間違って食べないよう、給食では、ひとりだけ違った献立を食べている様子を取材しました。
ニコニコとした笑顔ばかりが印象的だったのですが、今回再会して、「あの頃はつらい思いをたくさんしていた」と聞いて、「私はなにも分かっていなかった」と感じました。
田野さんも、症状が再び出ないか引き続き注意は必要な状況とのことでしたが、「今は、毎日が楽しい」という言葉に、改めてアレルギー治療の歩みはこういった子どもたちの苦労とともにあることを実感しました。
食物アレルギー治療は、まだ解明されていないことも多く、さまざまな研究が今も続いている最中です。全国どこにいても最新の情報に基づいた標準的な医療が受けられるよう、精通した専門医と、それと連携できるかかりつけ医の育成など課題も山積です。
しかし、それぞれの明るいゴールがあると信じて、食物アレルギーと向き合う子どもたちやその保護者の方たちが1人でも多く前向きに進んでいってほしいと願っています。
ふむ・・・