ふむ・・・
将棋界では一般的に、弟子が師匠に公式戦で勝つことを「恩返し」と称する。将棋の中学生棋士、藤井聡太(そうた)六段(15)と師匠の杉本昌隆七段(49)との初の公式戦が3月8日、大阪市福島区の関西将棋会館で指され、千日手(せんにちて)指し直しの末、藤井六段が勝った。藤井六段の「恩返し」は、大きく報道された。
本局は、将棋界に八つあるタイトル戦のうち、「王将戦」(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の一次予選の2回戦。午前10時に始まった対局は、午後1時18分、59手で千日手が成立した。
千日手について、日本将棋連盟のホームページをみると、「同一局面が4回現れた時点で『千日手』となり、無勝負とする。(中略)なお、同一局面とは、『盤面・両者の持駒(もちごま)・手番』がすべて同一を意味する」とある。
本局は、30分後の午後1時48分から指し直しとなり、最終的には午後6時20分に111手で終局した。以下、最初の将棋を「千日手局」、次の将棋を「指し直し局」と記すことにする。
まず、注目したいのは、千日手局で先手番だった杉本七段が、初手に2分ほど考えたことだ。
事前に杉本七段は「じっくり作戦を練って臨む」と話していた。それでなくとも、平素から序盤巧者として定評がある杉本七段のこと。先手番になった場合と後手番になった場合、両方の作戦を練り上げていたはずで、考慮時間を使わずとも指せるはずだからだ。
終局後、初手に少考した理由を報道陣に尋ねられ、杉本七段は「自分の棋士人生の中でも、おそらく一番注目された対局かな、と思いましたし……。こういう対局が出来ることを棋士として大変うれしく思いました。いろいろな人に感謝の気持ちを持ちながら、いろいろと考えて、数分(経ってしまった)」と答えた。感極まった様子だった。
そして、藤井六段は報道陣から「今の師匠の言葉を聞かれて、ひとこと」と促されて、「師匠には(プロ棋士養成機関の)奨励会時代から本当にたくさん教えていただいて。今日、こうして公式戦という舞台で対局することが出来て、本当に指せることをうれしく思っていますし……。これからも、さらに活躍していかねば、という思いです」と答えている。
最後の言葉からは、「師匠を負かしたからには、師匠の分も頑張りたい」という思いを感じた。
余談だが、将棋界の「恩返し」という表現には異説もある。弟子が師匠に公式戦で勝って、「こんなに強くなりました」というところを見せて、安心してもらって、「恩返し」というのが一般的な見解ではある。だが、「師匠を負かした相手を、弟子が倒すのが、本当の恩返し」という棋士もいる。「手塩にかけて育てた弟子に、将棋で負かされ、胸を張られるのは、ちょっぴり困る。それよりは、師匠が勝てなかった相手を、弟子が負かしてくれた方が、より素直に喜べる」というわけ。この説は、何人かの棋士から聞いたことがある。
2人が出会ったのは、藤井六段が小学1年のころ。名古屋市にある日本将棋連盟東海研修会での指導対局で、杉本七段に相手をしてもらった。小学4年の夏、弟子入りをする。
将棋界の師匠と弟子の関係は、独特なものがある。杉本七段からは「世間の人は、フィギュアスケートのコーチと選手の関係を連想するようなんですけど、違いますよね」と何度か、こぼされた記憶がある。将棋の場合、師匠は、技術を教えるというより、将棋界での身元保証人になる、という意味合いの方が強い。練習対局を重ねる師弟もいれば、ほとんど指さない師弟もいる。師弟関係は、さまざまだ。では、2人はどうか。
杉本七段は藤井少年の才能を見抜き、自主性を重んじる一方で、豊富な人脈を生かし、有力な若手棋士との練習対局で技を磨かせた。
記者が知る限り、弟子を育てたからといって、師匠に直接の金銭的なメリットは無いはずだ。
では、なぜ、師匠になるのか。「自分が師匠にしてもらった恩は、弟子に返す」という美徳が将棋界で脈々と受け継がれているからだと思う。弟子を育てた棋士は、「名伯楽」と称され、将棋界ではとても尊敬される。
杉本七段の師弟関係に対する思いを垣間見た場面がある。千日手局と指し直し局で、杉本七段が扇子を変えたことだ。扇子は、棋士の対局の小道具としてポピュラーだけれど、2本使うのは珍しいかもしれない。
終局後、報道陣に扇子について聞かれ、杉本七段は、次のように答えた。
「午前と午後で扇子を変えまして。午前中は、師匠の板谷進の扇子を使ってきましたけども。初めは、これを使うことを決めていましたけど。ずっと、これを持っていると、いろいろ考えてしまいそうで……。昔のことを思い出したりもして、感傷にふけってしまいそうだったので。午後からは変えました。午前中だけ使いました」
補足すると、午前中は、板谷進(いたや・すすむ)九段が「忍」と揮毫(きごう)した扇子。午後は、杉本七段の弟子の女流棋士、室田伊緒女流二段(28)が「舞」と揮毫した扇子だった。
杉本七段の師匠である板谷九段は1940年生まれ。プレーヤーとしてはA級順位戦に参加した一流棋士で、将棋の普及面でも東海地方の功労者。「東海地方にタイトルを」というのは板谷九段の悲願だったと言っていい。88年2月、47歳という若さで急逝した時、杉本七段は奨励会に在籍中。四段に昇段し、念願のプロ棋士になったのは2年半ほどたってからだった。
杉本七段は終局後の報道陣とのやりとりの中で、こう語っている。
「私自身は、自分が19の時に師匠が亡くなりまして。その時、自分はプロではなかったんで。結局、師匠と公式戦で対戦するという夢は叶(かな)いませんでした」。ここまで語って、少し沈黙した後、「形を変えて、(自分が)師匠という立場ですけども、(自分の弟子の)藤井六段と公式戦で対戦出来たのを、うれしく思います」。絞り出すような声だった。
この話を聞き、記者はこんなことを想像した。杉本七段は、この対局に板谷九段の扇子を使うことで、この対局を今も慕う板谷九段に見せたいと願ったのではないか。その思いが強すぎて、感極まって、午後は、もう、その扇子を使うのが無理な状態になった。ただし、変えた扇子は、自分の弟子の室田女流二段のもの。彼女にも、この対局に臨んだ自分の心中を伝えたいという思いが、どこかに、ありはしなかったか。
最後に。報道陣から「いま、弟子の藤井六段にかけたい言葉は?」と問われ、杉本七段は「彼の強さは証明されていますし、改めて、なにか、かけたい言葉というのは無いんですけど」と切り出し、「この対局は、藤井六段のみならず、私まで注目していただきましたので。こういった場で指せる、ということは記念にもなりましたし」と続け、「勝負としては(自分が負けたのは)非常に残念なんですけども、改めて、この、今日の一日は、改めて、素晴らしいものだと思いましたし。藤井六段にお礼を言いたいな、と思います」と結んでいる。
思い返せば、この師弟戦が実現したのは、1回戦で藤井六段(当時五段)が南芳一・九段(54)を相手に、いったんは大苦戦に陥った将棋を230手まで粘って、大逆転勝ちを収めたからだ。だからこそ、シードされる形で待っていた杉本七段との対局が実現した。師弟戦が実現すれば、師匠がどんなに喜ぶか知っていた弟子の驚異的な頑張りだったか、と今にして思う。
杉本七段は報道陣に「出来ることなら、また、もう一回、対局してみたいな、と思います」と話した。
そして、「東海地方にタイトルを」という板谷九段の悲願は、板谷一門である藤井六段にも引き継がれている。(佐藤圭司)
情報源:師匠の夢、藤井六段の恩返し 「東海地方にタイトルを」:朝日新聞デジタル
へぇ・・・