へぇ・・・
2020年12月10日 14時00分
まだまだ勝手に関西遺産
将棋を担当するようになって約20年。これほどまでに足しげく通い詰めた建物は、ほかにない。大阪・福島にある関西将棋会館のことだ。
関西将棋会館 大阪市福島区福島6の3の11。JR大阪環状線福島駅からすぐ。1、2階は誰でも入れるが、3階以上は一部を除いて、関係者以外立ち入ることができない。1階は、藤井聡太二冠の扇子やグッズを購入できる販売コーナーやレストラン「イレブン」など。2階は、豊島将之竜王が少年期に通ったアマチュア向けの道場がある。棋士が研究や検討に打ち込める棋士室は3階、対局室は4階と5階にある。こんなにすごい建物、なぜここに?
れんが色の5階建て。日本将棋連盟の関西本部に所属するプロ棋士の拠点だ。7月16日、藤井聡太二冠(18)がタイトル獲得の最年少記録(17歳11カ月)を達成した対局も、ここで指された。「なぜ、こんな、すごい建物が、ここにあるの?」。道行く人のこんなつぶやきを聞くことも、一度や二度ではない。
時を戻そう。将棋界は近年こそ、年収1億円超の棋士も出てきたが、昔は貧しかった。戦後間もない頃は、高段者や後援者の自宅を転々としながら対局したという。
「先代」の拠点は不評だった
1953年、関西の棋士は大阪・阿倍野の木造2階建てを拠点にしたが、棋士には不評だったようだ。関西将棋界の大御所、内藤國雄九段(81)は「えらい目立たない所にある古い建物。階段を上ると揺れた」。関西が誇る伝説の棋士、阪田三吉(1870~1946)を主人公にした演歌「王将」の世界観そのものだった。
https://www.youtube.com/watch?v=Em_6pq5FbnQ&hd=1
「新築の会館を」。関西の棋士は願い続けた。転機は70年代半ば。棋戦の数が増え、将棋界の収入が増えたことが追い風になった。七十数カ所の候補から今の場所が選ばれたといい、28年後の81年に完成。内藤九段は「そりゃあ、見違えるようだった。これでファンに『対局を見に来てください』と言えるようになった」。
あの時の恩、決して忘れない
自己資金で足りない分は、企業やファンからの寄付で補った。大山康晴十五世名人(1923~92)の献身ぶりは語り草だ。関東を拠点に活躍したが、岡山県倉敷市出身で、若き日に大阪で修業した大山十五世。時には飛び込みで企業を訪問し、寄付を頼み、頭を下げた。いまも大山十五世の肖像画と写真が会館内に飾られているのは、「あの時の恩を決して忘れない」という関西棋士の思いの表れに違いない。
対局室は、江戸時代に将棋の名人が将軍に対局を披露した「江戸城本丸御黒書院」を模した。東京・千駄ケ谷の将棋会館にもない、スペシャルバージョン。大阪城でも姫路城でもなく江戸城をモデルにしたのは、将棋の歴史を尊重したからだ。
豊島竜王・叡王も通った
関西将棋会館は単に対局の場にとどまらない。2階にあるアマチュア向けの道場は、若い力をはぐくむ役目も果たしている。豊島将之竜王・叡王(30)も道場のOB。今春、実力トップ10のA級に昇った「西の将棋王子」こと、斎藤慎太郎八段(27)も7歳から通った。「関西将棋会館には20年も通ってますからね。やはり、思い入れはありますよ」
その斎藤八段に館内の思い出の場所を尋ねると、「3階の棋士室です」と返ってきた。将棋の盤駒が置いてあり、棋士の練習対局は自由。モニターに映る進行中の対局を研究することも出来る。「和やかな雰囲気の中、先輩棋士に盤上では厳しく鍛えていただきました」。斎藤八段の師匠、畠山鎮(まもる)八段(51)も「ここが関西将棋のパワーの源です」。
たかが将棋、されど将棋。これほど日本人の心を揺さぶり続けるゲームは貴重で、不思議な魅力がある。将棋界に八つあるタイトルのうち、現在、関西勢が半分を占める。関西棋士の喜怒哀楽がしみこんだ建物は、来年7月に丸40年の節目を迎える。
関西将棋会館のレストラン「イレブン」を営む川口弘文さん
開館当初から営業していて、関西将棋界の栄枯盛衰を感じてきました。谷川浩司さんが21歳で最年少名人になるなど、将棋ブームは何回かありましたが、一番すごかったのは藤井聡太さん。テレビ番組で棋士が出前でとる食事が注目され、ウチのバターライスも話題になりました。藤井さんには足を向けて眠れないほど感謝しています。スター棋士もたくさん来てくれます。内藤國雄九段は話術巧みで、聞いているだけで面白かった。亡くなった芹沢博文九段は朝から夫人同伴で、「ワインを飲ませて」とおっしゃった。棋士はユニークな人が多いですね。でも私、将棋のことはよく分からないんですが。
取材のこぼれ話
関西将棋会館を紹介するのに今回たくさんの方に話を伺ったが、紙面でご紹介できたのは、ほんのわずか。朝日新聞デジタル読者のために番外編をお届けしたい。
まずは藤井聡太二冠(18)の師匠、杉本昌隆八段(52)。
関西将棋会館の中で思い出の場所を尋ねると、「5階の(最も格式の高い対局室である)『御上段の間』の隣の小部屋」と答えた。意外な答えに、オッと思わせてくれるのが杉本八段らしい。その理由は……。
「私が、まだ(棋士養成機関の)奨励会で修業していたころ、対局の指し手を記録して、棋譜を書き上げる『記録係』の仕事を終えた時の話です。深夜で、始発電車が動くまで、同じく記録係の仕事を終えた仲間たちと、なぜか、その場所でトランプをすることになったんです」
ちなみに、ゲームの種類は「大貧民」だったそうで、たまたま、隣にいた藤井聡太二冠はニコニコ笑って、聞いていた。
「トランプをしただけなら、すぐに忘れたと思うんですが……。深夜で誰もいないはずなのに、私たちのいた部屋の照明がついていることに、たまたま通りかかった森信雄七段(68)と浦野真彦八段(56)が気付いて、巡回(?)に来られたんです。あわててトランプを隠したんですが、見つかりました。その時、森先生は若者を指導する立場だったはずで、『(大切な対局室のすぐ近くでトランプをするだなんて、と)怒られる』と思ったんです」
ところが……。
「ワシらもまぜてくれ、と言われまして。逆に、ビックリして、この出来事は、ずっと覚えています」
関西将棋界のアットホームな雰囲気が伝わってくる。
杉本八段は1990年10月1日付で、21歳の時にプロ入りを果たしたから、30年以上前の話だ。
続いて、長谷川優貴女流二段(25)。関西将棋会館の中での思い出の場所は「2階の道場です」。まだアマチュアだった少女時代、将棋大会で早めに敗れてしまった時に、もっと将棋を指したくて、駆け込む場所だったそうだ。
関西将棋会館の警備員として15年ほど勤務し続けているという應谷(おうたに)隆清さん(72)は、奨励会を年齢制限のため退会せざるを得なくなった人たちのことが忘れられない、という。「最後に『退会します』と、あいさつに来てくれる子もいるんですが、何年経っても、その瞬間が辛(つら)い。お別れした後、物陰に隠れて、思わず泣いたこともあります」と教えてくれた。
白星と同じだけ、黒星も発生する。黒星が積み重なると、棋士になる夢をあきらめなくてはならない場合もある。勝負の世界の厳しさだ。
板谷九段に声を掛けてもらった
最後に、記者の思い出を一つだけ。
大学生の時、東京から夜行列車でふるさとの岡山市に帰省する途中、初めて関西将棋会館に立ち寄った。お目当ては販売コーナー。たまたま内藤國雄九段(81)のエッセー集が直筆サイン入りで販売されていて、大喜びしながら購入した。
当時、まだ4階にあった将棋博物館を見学していると、「いらっしゃい」と声をかけられた。杉本八段の師匠、藤井二冠にとっては大師匠(師匠の師匠)にあたる板谷進九段(1940~88)だった。新聞で知っていた棋士から声をかけてもらって、非常にうれしかったことを覚えている。
それから十数年後、記者が初めて担当したプロ公式戦「朝日オープン将棋選手権」五番勝負に勝ち上がってきたのが杉本八段だった。
板谷九段がかけてくれた「いらっしゃい」は、記者にとっては「将棋の世界に、いらっしゃい」という意味だった。そう、最近、気付いた。(佐藤圭司)
情報源:詰まってる 汗も涙も愛情も 関西将棋会館はパワーの源:朝日新聞デジタル
村)5階の『御上段の間』の隣の小部屋で、仲間たちとトランプをしていた修業時代の杉本昌隆八段。その様子を先輩棋士に見つかって、「怒られる!」と思ったものの、実際にかけられたのは意外な言葉でした。
詰まってる 汗も涙も愛情も 関西将棋会館はパワーの源 https://t.co/bUn15lWRqh— 朝日新聞将棋取材班 (@asahi_shogi) December 10, 2020
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