ふむ・・・
平成10年秋にカープに入団し、20年間プロ野球選手として活躍した新井貴浩氏。
若き日は低迷するカープで猛練習を重ね、その後は阪神の一員としてカープと対戦。そして現役晩年は再びカープの選手として3連覇に大きく貢献し、黄金期を形成した。激動の現役生活を送ってきた新井氏に、自身が考える平成カープを語ってもらった。* * * * * *
─ 新井さんは99年に、前年4年ぶりのBクラスに沈んだ状況のカープに入団されました。
「僕が大学の頃は三村敏之監督時代で『ビッグレッドマシン』と呼ばれる打線でカープは毎年優勝争いをしていました。それがすごく印象に残っていました。その時代に巨人にメークドラマ(96年)をやられて優勝を逃して、だんだんと勝てなくなっていったというイメージがあります。ただ、僕が入団した頃はまだ江藤智さん(元広島・巨人など)もいらっしゃいましたし、打線は強い印象を持っていました」
─ 現役時代、FAにより主力選手が去る瞬間を目の当たりにされてきました。どんな思いで見ていましたか?
「僕はルーキーのときに江藤さんと1年間だけ一緒にプレーをしているのですが、巨人に移籍されたことで、個人的には正直『よし、出場できるチャンスが広がったぞ』と思っていました。ですが、02年オフに金本知憲さんがFAで阪神に移籍されたときは、すごくショックでした。あの当時僕はプロ5年目でしたが、チームでは金本さんが獅子奮迅でしたからね。他の主力の方々にケガ人が多くて、打線では金本さんが1人で引っ張っていたイメージもありましたし、公私共にすごくお世話になっていましたからね。それだけに頼れる金本さんがいなくなってショックでした。チーム全体としても、金本さんがいなくなって『どうなっていくんだろう』という感じだった記憶が強いです」
─ 当時カープの選手として他球団の補強をどのように感じていましたか?
「FA制度やドラフトなど、カープにとって不利な時代だったと思います。そういう制度やいろんなことが重なったこともあって、低迷期が長くなってしまった印象があります。結果的に僕自身もFA移籍しましたが、カープ時代は単純に『とにかく負けないぞ!』と思ってプレーしていました。反骨精神とは違いますが、カープは育成という方針ですし、そういう補強をしているチームには負けたくない、という気持ちを常に持っていました」
(広島アスリートマガジン2019年5月号から一部抜粋・続きは本誌にて掲載)
▼ 新井貴浩(あらいたかひろ)
1977年1月30日生、広島県出身。
ドラフト下位入団ながらも強靭な肉体で猛練習を乗り越え、4年目の02年には初の全試合出場、28本塁打をマークしてレギュラーに定着。以降、広島不動の4番として活躍するも、07年オフに“涙のFA宣言”で阪神へ移籍。14年オフに阪神を自由契約となると、広島に“覚悟の復帰”。復帰2年目の16年には通算2000安打、300本塁打を達成するなど打線を牽引し、25年ぶりの優勝に大きく貢献。リーグ最年長でのMVPに輝いた。18年限りで現役を引退。19年からプロ野球解説者として活動。* * * * * *
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情報源:元広島 激動のプロ野球現役生活を送ってきた新井貴浩が語る平成カープ(広島アスリートマガジン) – Yahoo!ニュース(コメント)
ほぉ・・・