将棋アマ名人を獲得した鈴木肇が、再びプロ棋士を目指すまで(後編) | 観る将棋、読む将棋 | 文春オンライン

ほぉ・・・


前編より続く)

がけっぷちの三段リーグ

2013年度前期。鈴木は7期目となる三段リーグに臨んだ。最初は2連勝でスタートした。あとは、一進一退だった。2013年9月9日に26歳の誕生日を迎える鈴木にとって、これが最後となるがけっぷちの戦いを意味していた。

2018年現在、奨励会の年齢制限の規定は、以下のように定められている(日本将棋連盟「奨励会規定」)。

〈満21歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は退会となる。ただし、最後にあたる三段リーグで勝ち越しすれば、次回のリーグに参加することができる。以下、同じ条件で在籍を延長できるが、満29歳のリーグ終了時で退会〉

「アマ名人獲得記念イベント」での鈴木肇(写真提供:藤田なつき)
「アマ名人獲得記念イベント」での鈴木肇(写真提供:藤田なつき)

ただし書きは、わずかな救済規定である。勝ち越し、すなわち10勝8敗以上の成績を取ることができれば、次の期の三段リーグにも参加することができる。この規定が、後に鈴木にとっては、大きく意味を持つようになる。

「プロはすごい」

年齢制限が迫る中でも、鈴木は変わらず記録を取り続けた。

2013年8月1日。鈴木はB級2組順位戦・佐藤天彦七段-戸辺誠六段戦(段位はいずれも当時)の記録を取った。もう1つの忘れられない対局だ。

「戸辺先生は自分より1つ歳上なんですけれど、ずっと『兄貴』という感じでした。将棋も教えてくれたし、ご飯も食べさせてくれた。よく家にも泊まらせてもらいました」

佐藤-戸辺戦は、すさまじい勝負だった。最初の一局は両者手を変えられずに、千日手で引き分けとなった。指し直し局はまさに死闘。終盤ではずっと戸辺がリードしていた。佐藤の玉は、何度も死線をさまよった。しかし、佐藤は危ういところで切り抜け続ける。

「天彦先生の王様の耐久力がすごくて……。すごかったです。すごい名局だった。『プロはすげえなあ』と思いました」

鈴木の語彙力が足りないわけではない。確かにその一局を並べ返してみれば「すごい」としか言いようがない。すさまじい生命力を見せた佐藤の玉は、ついに最後の最後まで捕まらなかった。終了時刻は深夜2時32分。174手で、佐藤が大逆転勝利を収めた。

結果的に佐藤はその期、B級2組を10戦全勝で通過する。さらにはB級1組、A級を経て、将棋界の最高峰である名人位にまで上り詰めた。

「プロはすごい」

佐藤の強靭な粘り腰を見て、改めて鈴木がそう思ったのは、ギリギリのところにまで追い込まれている自身の姿と比べてみたからだろう。

最後となるかもしれない三段リーグ。鈴木は15局を終えた時点での成績が7勝8敗だった。残り3局のうち、1局でも敗れたら、その時点で退会決定だ。がけっぷちに追い込まれていた。鈴木はそこで、からくも踏みとどまり続ける。2連勝して、9勝8敗。最終局に勝てば生き残れるというところまでこぎつけた。

運命は皮肉なようにできていた。実はこの期、鈴木と同じような立場の三段がいた。それが宮本広志である。

生き残りを賭けた鬼勝負

三段リーグに所属する宮本は、すでに26歳を過ぎ、27歳となっていた。しかし前述の勝ち越し延長規定により、すでに3期、三段リーグでの挑戦を続けてきた。そしてこの期は、鈴木と同じように7勝8敗と追い込まれながら、そこから連勝。最終局に勝てば、生き残るという点まで一緒だった。

そして、何ということか。9勝8敗同士、勝ち越しを決めれば三段リーグに残れる鈴木と宮本は、最終18局目で対戦することが決まっていた。

その意味するところは、簡明で、残酷だ。すなわち、負けた方が、奨励会退会となる。

三段リーグはこれまで、数々の残酷なドラマを生んできた。しかしこれほどまでに過酷な勝負が、過去にどれだけあっただろうか。

鈴木にとっては、もう触れてほしくない過去のことかもしれない。しかし改めて、鈴木に当時のことを語ってもらった。

「そうですね。あの将棋は、すごくいい将棋だったんですよ。自分の中では、一番いい将棋が指せたというか」

大勝負に名局なしという。しかしこの一局は、おそるべき大熱戦となった。

「最後の10分ぐらいで、形勢は二転三転しました。『詰めろ逃れの詰めろ』が3回ぐらい出ました。激闘だったんです。『勝ったな』と思った瞬間もあったし、『もうダメだ』と思った瞬間もあった。10分の間に、いろんなことが起きすぎました」

この時運命は、鈴木に味方しなかった。

「最後の最後に『ああ、おれはこれで死ぬんだな』という気がしました。『おれはこれだけの将棋が指せるのにな。もっと指したかったな』と思いました。でもいろんなことが起こりすぎて、終わった直後は、何が起きたかよくわかんなかった。そう感じたことを覚えています」

盤上に残された駒の配置だけを見れば、結果は残酷なまでに明白だった。

宮本、10勝8敗。

鈴木、9勝9敗。

わずか星1つの差で、両者の運命は大きく分かれた。勝ち越した宮本は、奨励会員として生き残った。敗れた鈴木は、年齢制限の規定により、12年在籍した奨励会の退会が決まった。

奨励会幹事の棋士にあいさつをして、鈴木は長年通い続けた将棋会館を後にした。

「恥ずかしい話ですが、帰りの電車では泣きました」

人目もはばからず、鈴木は泣き続けた。帰宅後も、ずっと泣き続けた。

対局から2日後の9月9日。26歳になった。鈴木にとって、人生最悪の誕生日だ。

「この世の終わりみたいな誕生日でした。あの誕生日だけは忘れられないです」

5年後のいま、鈴木はそう振り返った。

「自暴自棄になっていました」

鈴木と宮本による、三段リーグ最終戦での運命の一戦には、続きの話がある。鈴木との死闘を制した宮本は、次の2013年度後期の三段リーグで白星を重ねた。そして13勝5敗という好成績をあげ、四段に昇段している。

プロになった宮本。奨励会を去った鈴木。その差は何と形容すればいいのか。

鈴木は奨励会を辞めてしばらくの間、精彩を欠いた日々を過ごしていた。

「いろんなことをやってはダメでした。アルバイトも辞めたし……。自分がいま何をやりたいかもわかんなくて、自暴自棄になっていました」

鈴木にとっては、つらい日々が続いた。

鈴木は従弟の森村賢平に、自分が果たせなかった望みを託した。

「彼は上がると思っていました」

森村は16歳で三段になった。エリートコースにいたと言ってもいい。しかし、その森村にとっても、三段リーグは厚い壁だった。森村はそこに18期在籍し、ついに26歳で年齢制限を迎えていた。

しばらく後、鈴木に転機が訪れた。再び将棋に触れる機会を得たのだ。

「森内先生(俊之九段)や横浜の方から『将棋講師をやってみないか』と声を掛けていただいたんです」

指導先の企業の将棋部にて、5面指しの指導
指導先の企業の将棋部にて、5面指しの指導

鈴木は指導者として、再び将棋に向き合うようになった。鈴木は優しく親切な人柄だ。子どもたちに将棋を教えることは、もしかしたら、天職だったのかもしれない。現在は横浜の吉野町で「はじめしょうぎ教室」、青葉区で「青葉はじめしょうぎ教室」の講師を務めている。

「最近は人も増えてきました。おかげさまで今は楽しく将棋を教えています。教え子がもう10人ぐらい奨励会に入っています。子どもたちに刺激を受けて、『先生もちょっと強いところを見せようかな。負けられへんな』と思っています」

プレーヤーとしてアマチュア棋界の頂点に

鈴木は将棋教室の講師を務める一方で、プレイヤーとしても再び活動を始めた。

鈴木の住んでいる神奈川県、および関東地区は、アマ強豪がひしめく激戦区である。わずかな代表枠をめぐって、熾烈な争いが繰り広げられる。元奨励会三段という肩書だけで勝てるほどには、甘くない。

そうした中で鈴木は、たちまちのうちに好成績を収めていった。

2015年、鈴木は第32期アマチュア王将位大会(アマ王将戦)で全国大会優勝を果たした。

2015年、アマ王将戦全国大会で優勝
2015年、アマ王将戦全国大会で優勝

翌2016年、アマ名人戦では全国大会に出場。優勝した天野啓吾(兵庫県代表)に敗れはしたが、ベスト4にまで進出した。

2017年。奨励会退会後、アマチュアとなった従弟の森村が、アマ王将戦で優勝した。鈴木と森村は再び、神奈川県代表を争う関係になっていた。

「名人」は特別な存在である

2018年、鈴木は再びアマ名人戦全国大会に出場した。そのさなかの9月9日、鈴木は31歳の誕生日を迎えた。あの人生最悪の誕生日から、実に5年の歳月が流れていた。

古来、将棋を愛するすべての人々にとって、「名人」は特別な存在である。それと同様に「アマ名人」の称号は、アマ棋界においても特別な響きを持つ。

「いつかはアマ名人になりたい」

鈴木もそう考えていた。そしてあともう少しで、念願のアマ名人というところにまで駒を進めていた。

鈴木は本戦トーナメントの2回戦で、滋賀県代表の荒木隆と対戦した。鈴木と荒木には共通点がある。それは両者ともに、元奨励会三段だということだ。

2017年に巻き起こった藤井聡太フィーバーの中では、荒木の名はしばしば取り上げられた。2016年度前期三段リーグで、荒木は藤井と対戦した。そこで勝ったのは、若き天才藤井だった。藤井はその後も白星を重ねる。そして13勝5敗とリーグ最上位の成績をあげ、史上最年少の14歳2か月で四段昇段を果たした。一方で敗れた荒木は最終的に9勝9敗。勝ち越し延長規定に届かずに、年齢制限で退会となった。

鈴木から見て、荒木は少し歳下である。三段リーグで対戦することもなかった。この日の初めての対戦で、鈴木は荒木に大きくリードを奪われた。

「私は苦しい局面になることが多いんです」

鈴木はそう苦笑する。アマトップを争う場。鈴木が対戦する相手は、当然ながらみな強い。強敵にうまく指され、劣勢に立たされることは、珍しいことでも何でもない。

「将棋は辛抱ができるかどうかだと思います」

鈴木はそう語る。苦境に立たされた時にこそ、将棋プレイヤーは真価が問われる。決定的な差がつかぬよう、鈴木は辛抱を重ねた。そして残り時間も切迫した最終盤、鈴木は持ち駒の角を、攻防の位置に打った。勝負手だった。

鈴木が打った攻防の角は……

「詰めろ逃れの詰めろ」

そんな将棋の専門用語がある。将棋は一手でも早く、相手玉を詰ますことができれば勝ちである。次に自分の手番が回ってくれば、相手玉を詰ますことができる状態を「詰めろ」という。

実戦では、自玉の詰みを受けつつ、さらには逆に、次に相手玉を詰みに迫る、ドラマチックな攻防手が生じることがある。それが「詰めろ逃れの詰めろ」だ。

鈴木が打った攻防の角は、まさに「詰めろ逃れの詰めろ」のように見えた。

しかし、実はそうではなかった。鈴木は相手の玉が詰まないのは承知の上で、その角を打ったのだ。

アマ大会は短期間のうちに何局も、短い持ち時間で指さなければならない。時間があれば読み切れる局面でも、30秒の秒読みでは、とっさに対応するのは難しいことが多い。

鈴木の大胆な一手は功を奏した。理外の理という勝負手に、相手がわずかに誤った。それでもまだ鈴木の勝ちとなったわけではなかった。しかし流れは変わっていく。そして最後は大逆転。鈴木が九死に一生を得た。

誕生日翌日の大会3日目。鈴木は準決勝で、遠藤正樹(埼玉県代表)と対戦した。

「遠藤さんにはこれまで、何百番教わったかわかりません。始まる前からもう(両者得意の)相穴熊になるんだろうと思ってました。ずっとやってきた、決まってる戦形です」

鈴木は遠藤にも勝った。

決勝戦。最後の相手は、東大将棋部OBの小林知直(東京代表)だった。小林が先攻して、ずっと受ける展開となった。途中では心臓が止まるかのような、勝負手を見舞われた。

「相手の攻めは少し無理気味かな、とは思ったんです。でも、迫力あるんですよね。ちゃんとやれば少し残している(逃げ切って勝てる)と思っても、時間がちょっと切迫してるんで……」

最後までギリギリの攻防が続いた。そして総手数132手。わずかに鈴木が逃げ切った。

ついにアマ名人戦で優勝を果たした ©共同通信社
ついにアマ名人戦で優勝を果たした ©共同通信社

「いろいろあったけど……。やっといい誕生日になったと思いました」

奨励会で年齢制限を迎えた26歳の誕生日から5年。アマ棋界の頂点に立つアマ名人となった鈴木は、将棋指しとして、名実ともに再生の時を迎えていた。

リボーンの棋士

2018年。鈴木が棋譜監修を担当している『リボーンの棋士』(鍋倉夫作)という漫画の単行本第1巻が刊行された。

タイトルは、手塚治虫作の『リボンの騎士』と掛けているのだろう。「リボーン」(reborn)とは、「生まれ変わり、再生、復活」を意味する。

年齢制限で三段リーグを抜けられず、奨励会を去った青年が、社会に出て、将棋とは切っても切り離せない自分を再発見して生まれ変わる。『リボーンの棋士』は、そんなストーリーだ。それはまさに鈴木の存在そのものである。

「作者の方にはいろいろ、私自身の話もしました。私にとっても、愛着のある漫画です」

昔の将棋漫画もまた、奨励会をやめて行き場を失った青年がよく登場する。そこで絶望感を抱えながら、闇の真剣師として闘う、などというストーリーが多かった。しかし最近では、現実の変化に合わせて、漫画の内容も変わってきた。

リボーンの棋士(1) (ビッグコミックス)
リボーンの棋士(1) (ビッグコミックス)

近年の将棋界では、大きな改革がおこなわれた。それがプロ編入試験制度の導入だ。

2005年、元奨励会員の瀬川晶司がアマの枠を超えるような活躍をして、特例の編入試験に合格してプロになる。

同じような立場だった今泉健司が、2015年、今度は整備されたルートをクリアして、瀬川の後に続いた。

編入試験のハードルは高い。戦後、編入試験によってアマからプロとなったのは、現在までのところ、瀬川現六段と、今泉現四段しかいない。

「はい、目指そうと思っています」

しかし編入制度の存在によって、健全な希望を持つことが許されるようになった。

たとえ年齢制限で退会した元奨励会員であっても、再びプロを目指すと宣言して、「何を今さら」と批難されることはない。今となっては当然のことのようだが、瀬川がプロ入りの希望を表明した頃は、そうではなかった。

『リボーンの棋士』もまた、新しい、希望を持てる時代の物語である。

改めて鈴木に尋ねてみた。これから再びプロ棋士を目指すつもりはありますか、と。

「え? 私ですか?」

鈴木は照れたように笑った。

「ええ、そうですね。はい、目指そうと思っています。また最近、将棋の勉強をはじめました。欲が出てきて、また頑張ろうかな、と思っています」

はじめの一歩を踏み出した。いまはそういう段階なのだろう。

鈴木がプロ編入試験を受けるためには、公式戦に出場し、結果を残していく必要がある。当面鈴木はアマ名人戦で優勝した特典として、棋王戦1次予選に出場する機会を得ている。

アマ名人には、さらにもう1つの特典がある。それは時の名人と、角落の記念対局が指せるということだ。

トッププロとアマ王者の手合は、伝統的に角1枚の差とみなされてきた。大駒を落とす上手(うわて)からすれば、もちろん楽な手合ではない。しかし長年の戦績を見れば、下手(したて)が勝つのは容易なことではないとわかる。

鈴木アマ名人が角落で挑む相手は、奇しくも同い年の、佐藤天彦名人だった。鈴木にとっては、夢のような時間を過ごすことができた。

「アマ名人獲得記念イベント」での鈴木肇(写真提供:藤田なつき)
「アマ名人獲得記念イベント」での鈴木肇(写真提供:藤田なつき)

鈴木肇はいま、31歳

その結果はすでに、新聞等で報道されている。

〈鈴木肇アマ名人が佐藤天彦名人に挑む記念対局が指され、鈴木アマ名人が70手で勝った。佐藤名人は記念対局で3連勝を逃した。手合は佐藤名人の角落ちで、持ち時間は共に90分。鈴木アマ名人が元奨励会三段の実力を十分に示し、持ち時間を半分以上も残して寄せ切った〉(「神戸新聞」2018年11月11日朝刊)

記事に書かれている通りである。まさに鈴木の実力を示した結果と言えるだろう。

「特別対局室で対局できたのは、よかったです。5年ぶりでした」

鈴木はそう言った。ああ、そうか。三段リーグ以来ということですか。

「そうです。とても楽しかったです」

記念対局後の打ち上げにて、佐藤天彦名人(左)と鈴木肇アマ名人(画像提供:鈴木肇)
記念対局後の打ち上げにて、佐藤天彦名人(左)と鈴木肇アマ名人(画像提供:鈴木肇)

あの三段リーグ最終局。負けた方が奨励会退会という一番に負けた時。26歳の誕生日を迎えた時。鈴木肇は「死んだ」と思った。

同じような思いをした瀬川が、さすらいの時を経て、プロになったのは35歳。今泉にいたっては、41歳の時である。

鈴木肇はいま、31歳。まだ何も、終わってはいない。いまはまだ、始まったばかりだ。

(松本 博文)

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