へぇ・・・
名古屋の繁華街、栄(さかえ)。
百貨店などが立ち並ぶ都心の華やかな一角に、東海地区の将棋の拠点がある。プロ棋士板谷進(いたやすすむ)九段(1940~88)の蔵書などを保管する「板谷将棋記念室」だ。亡くなってから30年、今も東海将棋界の精神的支柱であり続け、順位戦で最上位のA級棋士となった活躍ぶりや、将棋普及への献身的な姿は語りぐさとなっている。
将棋記念室は、細長い路地を入った突き当たりの細長いビルの3階にある。ここで週末や祝日、20歳以下のアマチュア有段者らが腕を磨く「東海研修会」が開かれる。藤井聡太(そうた)七段(15)は、小学1年生の3月から4年生の8月まで月2回、母の裕子(ゆうこ)(48)と一緒に通った。
日本将棋連盟は、関東(東京)、関西(大阪)、東海(名古屋)、九州(福岡)の4カ所で研修会を主催している。
東海研修会では、朝に集合して、1人4~5局指したり、プロ棋士による駒落ち指導を受けたりする。プロを目指さない子どももいるが、一方で、プロ棋士養成機関「奨励会(しょうれいかい)」の下部組織という意味合いもある。連盟によると、一番下のFクラスでもアマチュア二段相当の実力があるという。勝ち星を重ねて上位クラスに昇ると、「奨励会」への道も開ける。
「小さくて、ポッチャリとして可愛い、いたずら好きな子でした」。2001年から世話役を続ける竹内努(つとむ)さん(61)は振り返る。「子どもたちの成績を記録していると、聡太君は私のおなかに乗ってきた。母カンガルーのおなかのポケットから子カンガルーが顔を出すような感じでね」。「可愛い」「小さい」という言葉が重なる。
10年3月7日、藤井七段が初めて参加したときの成績は1勝3敗。翌週の14日は2勝2敗だった。小学1年生だったこともあり、最初は苦戦した。ただ、すぐに異能を見抜いていた人物がいた。のちに師匠となる杉本昌隆七段(49)だ。
=敬称略
◆毎週日曜に掲載します。
情報源:(大志 藤井聡太のいる時代)成長編:6 奨励会への登竜門、参加初日は1勝3敗:朝日新聞デジタル
ふむ・・・