現在も多くの若手が腕を上げるべく将棋会館に集まる(共同)

【勝負師たちの系譜】古き良き昭和の将棋界 塾生は都合よくつかわれる“下僕”だった – zakzak

将棋界だけじゃなかろう


2020.4.18

現在も多くの若手が腕を上げるべく将棋会館に集まる(共同)
現在も多くの若手が腕を上げるべく将棋会館に集まる(共同)

【勝負師たちの系譜】

私が将棋界に入った昭和の時代を、思いつくまま振り返ってみたい。

私が奨励会に入会したのは、1968年(昭和43年)のこと。中学卒業と同時の15歳だから、今日、小学生のアマ四、五段で入る奨励会員と較べると、かなり遅い。しかも棋力はアマ二段だった。

今では考えられないが、師匠(廣津久雄九段)が専務理事だったせいか、一応試験に負けても入会できる保証はあった。

我々の時から年に一度の試験制度となったが、それまでは奨励会の本番での随時の試験で、中には4連敗したにもかかわらず「君は弱いから7級で(基本は6級から)」と、下の級で入った人もいた。

試験の前日、奨励会の対局日に観戦に行くと、I初段が「君、明日試験受ける子? 当たったら負けてあげるからね」と冗談半分に言われた。今と違い、奨励会員が日当をもらって指す試験だから、弱いのを沢山入れた方が得と考えたかも知れない。

とは言え、私は3局の試験に2連勝(2局目はI初段との角落戦)したため、試験は合格。幹事に「3連勝したら3級で入れるから」と言われたが、有野芳人2級(当時)に敗れ、4級での入会となった。

私は静岡県焼津市の出身で、東京に拠点がないため、将棋会館に寝泊まりする『塾生』となった。

塾生は最大4~5名で、奨励会員のエリートと言われたが、実態は都合よく使われる下僕のようなものだった。

朝起きると、前夜の対局室の片づけとその日の支度、泊まった棋士の布団畳みから始まり、対局者の昼食の注文、おやつ(当時は対局中に出した)の買い出しなど、一日中仕事があり、将棋の研究どころではなかった。

塾生の中にはおやつ当番になると、安いおやつでお金を浮かせ、うな重を食べていた人もいた。

塾生で一番嫌だったのは、徹夜マージャンの跡片付けで、灰皿は満杯になり、食べ残しが散乱している。

私は盤の片付けなら修行と思えたが、マージャンは許せず、一番大事そうな鳥の絵が付いた牌を一つだけ捨てたことがある。

ただしマージャンを利用して、夜食のラーメンを作って売っていた、ちゃっかり者の塾生もいた。

■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。

情報源:古き良き昭和の将棋界 塾生は都合よくつかわれる“下僕”だった(夕刊フジ) – Yahoo!ニュースコメント

情報源:【勝負師たちの系譜】古き良き昭和の将棋界 塾生は都合よくつかわれる“下僕”だった (1/2ページ) – zakzak:夕刊フジ公式サイト


はぁ・・・