将棋アマ名人を獲得した鈴木肇が、再びプロ棋士を目指すまで(前編) | 観る将棋、読む将棋 | 文春オンライン

ほぉ・・・


2018年9月9日。鈴木肇(すずき・はじめ)は、31回目の誕生日を迎えていた。

「いい誕生日にしたい」

鈴木はそう思っていた。なぜならそれまでの人生、誕生日にはまるでいい思い出がなかったからだ。

中でも最悪だったのは、5年前の誕生日だ。

誕生日は退会へのカウントダウンにも等しかった

当時23歳、奨励会で悪戦苦闘していた頃の鈴木肇(撮影筆者)
当時23歳、奨励会で悪戦苦闘していた頃の鈴木肇(撮影筆者)

鈴木はかつて、将棋のプロ棋士を目指していた。その養成機関である奨励会には、鉄の掟がある。それが年齢制限だ。奨励会に在籍できるのは、ごくわずかな例外規定を除けば、基本的には26歳まで。それまでに奨励会を卒業し、四段とならなければ、退会を余儀なくされる。奨励会で誕生日を迎えること、つまり1つ歳を取ることは、退会へのカウントダウンにも等しかった。

残念ながら、鈴木は奨励会を抜けることはできなかった。

2013年9月7日。鈴木は奨励会三段リーグで、最後の対局をおこなった。その2日後に迎えた、年齢制限を告げる誕生日。それが鈴木にとって、いい思い出であるはずがなかった。

いとこ同士が決勝戦で当たることもあった

鈴木は1987年9月9日、神奈川県横浜市で生まれた。幼い頃は母の方針で、体操、テニス、水泳、書道など、多くの習い事をしていた。

そうした中で将棋に出会ったのは、小学2年の時だった。2歳下の従弟が将棋を指していたのがきっかけだった。

「いとこに負けたくない」

そうして将棋にのめりこんでいった。身近な誰かの影響で将棋をはじめ、夢中になる。それだけならば、よくある話かもしれない。ただし、この話には続きがある。

従弟の名は、森村賢平という。熱心な将棋ファンであれば、なじみのある名前かもしれない。森村少年は、恐ろしく強かった。大激戦区の神奈川県において、小学生大会の優勝の常連だった。

いとこ同士が決勝戦で当たることもあった。優勝は森村。準優勝は鈴木。

鈴木は何度も小学生大会に出たが、あまりに強い従弟がいたため、神奈川県代表になったことがない。

「彼とは小さい時からずっと指し続けてきました。ずっと彼の方が、少しずつ上だったですね」

従弟に負けたくないという思いもまた、ずっとあった。しかるべき勝負の場まで、森村とは当たりたくなかった。だから森村と同じ、地元の将棋クラブには通いたくないと思った。

鈴木は地元からは少し離れた、八王子将棋クラブに遠征するようになった。少年時代の羽生善治も腕を磨いた、名門である。席主の八木下征男は、将棋好きの少年、少女たちに成長の場を与えた名伯楽として知られている。

八木下席主による子どもたちの紹介(画像提供:鈴木肇)
八木下席主による子どもたちの紹介(画像提供:鈴木肇)

鈴木が少年期を過ごした1990年代。将棋界では若きスーパーヒーロー・羽生善治が、社会現象になるほど勝ちまくり、注目を集めていた。1996年には、羽生は将棋界初の七冠同時制覇を達成している。

八王子将棋クラブには中村太地(現七段)、及川拓馬(現六段)、長岡裕也(現五段)、上村亘(現四段)、天野貴元(元奨励会三段)、甲斐智美(現女流五段)など、多くの強い子どもたちが切磋琢磨していた。

「同世代のトップが集まっていましたね。やっぱりそこに憧れて通っていました。自分も強くなれるのかな、と思って」

1977年にオープンした八王子将棋クラブは、2018年いっぱいをもって、閉じられることが決まった。入居ビルの改修工事や、八木下席主の体調がすぐれないことなどが理由である。

ニュースを聞いて、鈴木はかつての仲間たちとともに、久々にクラブを訪れた。思い出話は尽きなかった。

2度目の挑戦で奨励会合格を果たした

2001年。中2の鈴木肇と、従弟で小6の森村賢平は、どちらも将棋のプロへの道を志した。そのためには、棋士の養成機関である奨励会に入会しなければならない。奨励会受験に当たっては、将棋連盟の正会員である棋士に師匠となってもらう必要がある。鈴木は所司和晴六段(現七段)、森村は宮田利男七段の門下となった。

奨励会試験の結果は、鈴木は不合格。森村は合格だった。ここでも鈴木は、2歳下の従弟にリードを許した。その後、森村は奨励会で、順調に昇級、昇段を重ねていく。

翌2002年。中3となった鈴木は、2度目の挑戦で奨励会合格を果たした。決して遅いスタートではないが、早いわけでもなかった。

同学年とはいえ、鈴木から見て佐藤天彦(現名人)などは、はるか先を行く存在だった。鈴木が6級で入会した時、佐藤はすでに三段だった。

将棋界では一般的に、「同期」という言葉は、奨励会入会の年度が同じことをいう。関東奨励会で鈴木と同期となる2002年入会組は、13人だった。後で振り返ってみれば、奨励会を抜けて四段になったのは、わずかに1人だった。

鈴木は比較的順調なスタートを切った。中3で6級からスタートして、高1の時には2級に上がっていた。

鈴木は最初、高校には通いたくなかった。しかし親の勧めによって、地元の男子高である、横浜高校に進学した。

「行ってみれば、学校生活は楽しかったですけどね」

©iStock.com
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四段になれるのは年間4人しかいない

奨励会員は修業とアルバイトを兼ねて、対局の記録係を務める。将棋会館で公式戦の対局がおこなわれるのは平日だ。もし記録係を務めるとすれば、学校を休まなければならない。鈴木が通った高校は理解があり、その日は出校扱いにしてくれた。それもあって、鈴木はよく記録を取っていた。

当時、ゲームセンターに通っていたこともあった。

「メダルゲームとかしてました。他の子がやってるような、普通のことがしたかったんです。将棋だけをやってるのが、カッコいいとは思えなかった。バイトもしたかった。恋もしたかったんです」

やがて鈴木の停滞が始まる。2006年度はじめには、従弟の森村は、わずか16歳で三段になっていた。一方の鈴木は1級に留まっている。

プロの資格を得る四段となって奨励会を卒業できるのは、基本的には年間4人しかいない。奨励会入会者のわずか2割程度だ。多くの者が夢破れて去っていく。

同期は少しずつ辞めていく。その中の一人に、2級で退会した巨瀬亮一(こせ・りょういち)がいた。巨瀬は後に、最強クラスのコンピュータ将棋ソフト「AWAKE」を開発して有名となった。「AWAKE」は2014年の電王トーナメントに優勝し、棋士とコンピュータの勝負の場である「電王戦」にも出場している。

鈴木が真に勝つべき相手と思ったのは、自分より歳下の佐々木勇気(現七段)、黒沢怜生(現五段)、杉本和陽(現四段)などだ。彼らとの勝負には熱くなった。

「上がっていったスピードも同じぐらいだったんです。対抗意識があって、彼らとの勝負には燃えて熱くなりました」

ある時期、鈴木には恋人がいた

鈴木は奨励会員として、真剣に将棋に取り組んでいるつもりではいた。しかし、思うようには勝てない。そこで自分を変えたいと、いろいろもがいていた。

恋愛という青年らしい悩みもあった。ある時期、鈴木には恋人がいた。

「恋もしたかった。でも奨励会っていうのは、そういうところじゃない。だから、いろいろ悩んでたんです。葛藤はありました」

鈴木に恋人がいることは、周囲は知っていた。周りにも彼女のいる奨励会員はいた。しかしそれはやはり、一般社会と比べれば少数派だった。奨励会で勝っていれば、彼女がいようと、何をしようと、問題はない。しかし勝っていなければ、心ない言葉を聞くようになる。

「あいつは遊んでるから勝てないんだ」

そんな言い方をされる。恋人がいることと、将棋が勝てないこと。そこに関係はあるのか。

「本当はそんなのは、関係ないことだと思うんです。でも結局、それが将棋に負けた理由になってしまう。そこが悪いんじゃないかと思ってしまう。周りの目も気にしてしまう。それでダメになっちゃうんです。本当は関係ないのに……。それは今の私ぐらいの歳になればわかります。でもやっぱり、昔は、そういう気持ちにはなれませんでした」

恋人とは、別れた。

「彼女と別れると、全然勝てなくなるという場合もあります。逆もあるんです。それで急に頑張れるということもある。どっちかはわからないんです」

筆者が見てきた限りでは、若手棋士や奨励会員が付き合っている女の子は、将棋を全然知らないという子もいれば、かなり将棋を指す子、あるいは同じ業界内の子もいた。一般論としては、同じ業界同士の男女が付き合うのは、メリット、デメリット、いずれもあるだろう。たとえば、外部からはうかがいしれないような様々な事情を、お互いによくわかっている。面倒な説明をしなくても、通じ合えることは多いだろう。しかし一方で、お互いにそれぞれの立場、置かれている状況が、シビアにわかってしまうこともある。

気がつけば、鈴木は21歳になっていた。その時、二段。勝てない時期が続き、メンタル的にも、相当弱っていた。

「なかなか勝てなくて、三段に上がれない。悩んで、もう奨励会を辞めようと思いました」

「最後に、大阪の関西将棋会館を見に行こう」

鈴木はずっと関東奨励会に所属してきた。そこでふと思った。

「せっかくだから最後に、大阪の関西将棋会館を見に行こう」

奨励会員がそんなに金を持っているはずがない。それでも、夜行バスに飛び乗って、一路大阪を目指した。

日本将棋連盟の拠点である将棋会館は、東京と大阪の2か所にある。すべての棋士は、関東と関西のどちらかの組織に所属している。2018年11月現在、現役棋士の総数は165人。そのうち、関東所属は109人、関西所属は56人だ。数としては、ほぼ2:1の割合である。

長い間、どちらかといえば関東の方にトップレベルの棋士が多かった。しかし近年、関西所属の優秀な若手棋士が続々と現れ、将棋界を席巻しつつある。タイトル経験者だけを挙げても、豊島将之王位・棋聖(28歳)、斎藤慎太郎王座(25歳)、糸谷哲郎八段(元竜王、30歳)、菅井竜也七段(前王位、26歳)。ごく最近の話をすれば、愛知県瀬戸市在住の藤井聡太七段も、所属は関西である。

鈴木は関西将棋会館3階の棋士室に、3日間ぐらいずっと居続けた。そこでいろんな相手に対局してもらった。結果は、惨憺たるものだった。

「全部負けました。もちろん相手は強かったです。奨励会三段とか(四段以上の)プロとか。でもちょっと悔しかったんです」

「勉強をするのが当たり前」という自然な一体感

関西会館の棋士室にずっといたことで、奨励会員や若手棋士たちが、朝から晩まで、ずっと将棋に打ち込んでいることがわかった。

「勉強量が違いました。『自分は一生懸命やったと思ってたけど、全然ウソだったな』ということに気づけた。関西には『勉強をするのが当たり前』という自然な一体感がありました。私は『勉強はつらいこと』というイメージがあったんですが、関西ではみんなが楽しんでやっていた。自分もそこにいれば強くなれるかもしれないと思いました。東京では勉強する気になれなかったんで、環境を変えようと大阪に何度も行きました。棋士室にいると声をかけてもらえるようになって、1週間ずっと研究会を開いてもらったこともあります」

鈴木にとって大阪での日々は、大きな転機となった。

「夜行バス代しかなくて、ホテル代はない。だから人の家に泊まり込ませてもらいました。西川君(和宏現六段)とか、都成君(竜馬現五段)とか、ホッシー(星野良生現四段)とか、村田顕弘君(現六段)とか。2週間ぐらい居させてもらったりしました」

当時親しくなった関西の関係者とは、今でも交流がある。西川、都成、稲葉陽(現八段)、船江恒平(現六段)、竹内貴浩(現指導棋士四段)といったメンバーとは、1年に1回、ともに旅行に行く間柄だ。

奨励会8年目の2009年秋。鈴木はようやく三段に上がった。23歳の時だった。

三段リーグ初参加、最高のスタートを切った

2010年度前期。鈴木にとって、初めての三段リーグが始まった。三段リーグは半年で1期。26歳の誕生日まで、鈴木に残された期間は7期だった。

鈴木は最高のスタートを切った。7局を終えた時点で6勝1敗。鈴木が勝った相手は、千田翔太(現六段)、船江、西田拓也(現四段)、八代弥(現六段)、石井健太郎(現五段)など。鈴木が所属していた三段リーグが、いかに厳しいところだったかは、そのリストだけでもうかがいしれよう。

鈴木にとっての三段リーグ8戦目。そこで対局したのが、当時15歳、高1の佐々木勇気だった。

2004年、佐々木は小学生名人戦に優勝した。小学4年での優勝は、渡辺明(現棋王)以来の快挙だった。同年、奨励会に入会。英才が揃う奨励会員の中にあって、佐々木は頭一つ抜けた、屈指の天才だった。中2の時点では早くも三段に昇段。渡辺明以来の中学生棋士の期待もかけられていた。惜しくもそれはかなわなかったが、いつ四段に昇段しても、誰も不思議とは思わない実力を持っていた。

鈴木6勝1敗。佐々木5勝3敗。この時の三段リーグでの対局を、鈴木はよく覚えているという。

「200手ぐらいやったのかな。ずっと勝ちだったんです。それが最後に追いつかれました。(相手陣に玉が入り込む)入玉模様になってたんですが、相手陣で詰まされて負けました。それがもう、すごく悔しくて。私はそれまで、彼に負けたことがなかったんです。だからショックだったですね。『あの将棋を勝ちきれないようじゃ……』。そう思って、自分を責め続けました」

両者にとっては、この一局が大きな分岐点となった。佐々木はその後も勝ち続け、14勝4敗で1位通過。16歳の若さで、四段に昇段した。

一方で、鈴木はどうだったか。

「佐々木勇気戦に負けた後にちょっとクラっときました。そこから勝てなくなって……。あとは連敗です。パンチドランカーみたいになっていきました」

三段リーグには、鈴木の従弟の森村賢平もいた。鈴木は三段に上がって、ようやく従弟に追いついた気がした。しかし三段リーグでの初めての対戦も、従弟に敗れた。

最初の三段リーグは、最終的には9勝9敗の成績だった。

過ぎていく時間

筆者は将棋のネット中継に携わる中で、記録係を務める鈴木の姿を何度も撮影した。手元のハードディスクには、そんな鈴木の写真がたくさん収められている。

2011年2月、栃木県大田原市でおこなわれた王将戦七番勝負第3局・久保利明王将-豊島将之六段戦。弱冠20歳の大器、豊島が初めてタイトル戦に登場したシリーズで、23歳の鈴木は記録係として盤側に座っている。豊島に比べて鈴木が歳を取りすぎている、というわけではない。豊島の出世が早いだけだ。

2011年王将戦七番勝負、豊島将之五段-久保利明王将戦(撮影筆者)
2011年王将戦七番勝負、豊島将之五段-久保利明王将戦(撮影筆者)
20歳の豊島挑戦者と後ろに控える23歳の鈴木記録係(撮影筆者)
20歳の豊島挑戦者と後ろに控える23歳の鈴木記録係(撮影筆者)

数多くの記録を取った鈴木には、印象に残る対局が2つあるという。

1つは2011年3月のA級順位戦・森内俊之九段-久保利明二冠戦。森内には名人挑戦、久保には残留がかかった大一番だった。

「その将棋は、迫力がすごかったです」

終局は深夜1時40分。175手の大熱戦を制して、森内が名人挑戦権をつかんだ。

2011年6月。羽生善治名人に森内九段が挑む名人戦七番勝負の第6局でも、鈴木は記録係を務めた。対局場は将棋駒の産地として知られる、山形県天童市。対局前日、鈴木は地元の人たちから地酒を勧められた。人のいい鈴木は、断ることを知らない。親切に注がれるまま、美味い地酒を何杯も飲んだ。

「アホなんで、がばがば飲んでたんです。その時にですね、羽生先生から『もう飲まなくても大丈夫だよ』って言ってもらいました」

翌日起きてみると、当然のように二日酔いだった。午前中はクラクラとしながらも、記録係は無事に務めた。その対局は羽生名人が勝って、3勝3敗に。最終第7局は森内九段が勝ち、4勝3敗で名人に復位した。

2011年6月、将棋の名人戦第7局で森内俊之九段は羽生善治名人を破った ©共同通信社
2011年6月、将棋の名人戦第7局で森内俊之九段は羽生善治名人を破った ©共同通信社

「逆転負けがすごく多かった」

鈴木は記録係も真面目に務め、普段の勉強にも身を入れていた。自分が強くなっていく実感もあった。しかし三段リーグでは、思うような成績が残せなかった。なぜか。

「逆転負けがすごく多かったんです。序中盤はそんなに負けてない。ずっと競っていて、最後の最後で負けることが多かった。自分は終盤力で、みんなよりも少し落ちていたんだと思います。相手も強いので、ちょっとしたミスはもう許してくれない。それで勝てなくなって、メンタルも病んでいたかもしれません」

聞いていて、つらくなるような話だ。それが奨励会、三段リーグというところなのだろうか。

「真剣にはやっていました。真剣にはやってたんですけど……。やっぱり心の部分が……。心がすごく弱かったんです。そこは今でも、もったいなかったなと思います。もうちょっとふてぶてしかったら……。もうちょっと頑張れたかな、と思います」

9勝9敗。4勝14敗。8勝10敗。4勝14敗。8勝10敗。7勝11敗。

鈴木の三段リーグの成績である。上位2人に入る成績は残せないまま、またたくまに6期3年が過ぎていった。

後編へ続く)

(松本 博文)

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