【新井の伝言】<3>休むことの怖さ 痛みで欠場、定位置失う | 広島東洋カープ | 中国新聞アルファ

ふむ・・・


代打3ランでアピールも、三塁の定位置を取り戻せなかった(2001年5月6日)
代打3ランでアピールも、三塁の定位置を取り戻せなかった(2001年5月6日)

入団3年目の2001年、新井貴浩は初の開幕スタメンをつかんだ。「7番・三塁」でシーズンイン。カープが一進一退する中、長打や拙守で存在感を示し始めた5月、27試合目にその名が先発オーダーから消えた。

5月4日、広島市民球場でヤクルト戦が控える朝。「起きたら、左のアキレス腱(けん)が痛かった。三篠寮の2階の部屋から、まともに階段を下りられなかった」。球場へ向かう胸の内は、欠場の覚悟で固まっていた。

練習のためにグラウンドへ出ても、走るどころか、歩くのもやっと。「どしたんや? 足が痛いんか。ふーん。でも試合には出ろよ。戻るところがなくなるで」。声の主は当時の4番打者、金本知憲だった。

痛みの原因は不明。新井は欠場するための理由を探した。「もし試合に出ても、この足ではきっと打てない、おそらく守れない。それではチームに迷惑がかかる」。おとなしくベンチに座り続けた。

新井が抜けた「7番・三塁」には、打撃不振のエディ・ディアスが起用された。この夜に勝ち越し2ランでヒーローになると、翌日も本塁打。さらに1試合3発など、6試合で7アーチを量産した。金本は「だから言ったやろーが」と新井を一喝。足の痛みが消えた時、三塁の定位置は埋まっていた。

その後は右翼などで出場を重ね、いずれも自己最多の打率2割8分4厘、18本塁打、56打点をマーク。それでも一度手放した三塁のレギュラーはつかめなかった。「休むことの怖さが分かった」

翌02年に初の全試合出場を果たした。以降は鎖骨骨折の疑いがあっても、太ももの筋損傷で膝が曲げられなくても、左手中指を脱臼しても、グラウンドに立ち続けた。「痛いか、痛くないかは問題じゃない。プレーできるかどうか」。プロ野球歴代13位の2383試合に出場。トレーナーの制止を振り切って強行出場した試合は、決して少なくない。=敬称略(山本修)

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