「努力の天才」が残したもう一つの功績 福原愛引退:時事ドットコム

よく続いたよな・・・


全日本選手権初優勝を果たし、涙ぐむ福原愛=2012年1月21日、東京体育館【時事通信社】
全日本選手権初優勝を果たし、涙ぐむ福原愛=2012年1月21日、東京体育館【時事通信社】

◇冬の時代に登場した少女

卓球女子の福原愛(29)が10月21日、現役引退を表明した。3歳でラケットを握り、「天才少女」「泣き虫愛ちゃん」と騒がれて始まった競技生活は26年に及ぶ。日本卓球界を再生させた功労者の引退だが、一つの時代の終わりを感じさせないところが、むしろ福原の足跡の大きさを物語っている。

1980年代半ばから冬の時代にあった日本卓球界に登場したのが、88年生まれの福原だった。4歳で小学生の大会に出て快進撃。厳しい練習に泣きながらラケットを振る姿がテレビで流れ、たちまち人気者になる。

6歳の時から全日本選手権バンビ(小2以下)3連覇。10歳でプロ宣言し、中学時代から国際卓球連盟(ITTF)のツアーに出場。2003年世界選手権では14歳でベスト8。04年にはアテネ大会で五輪初出場を果たし、世界選手権では同年から10年まで4大会連続で団体銅メダルを獲得した。

右シェークハンドの前陣速攻型。特徴はバックハンドにあった。打球面に長いイボが並んだ「粒高」の表ソフトラバー。テンポの速さに加え、このラバーから生まれる複雑な球質が武器になった。

08年北京五輪などで日本代表監督を務めた近藤欽司さんは「強力なドライブを、相手コートで2バウンドするくらいに止める。彼女ならではの技術だった」と評する。使いこなすのが難しいラバーだが、元全日本チャンピオンで一緒に12年ロンドン五輪で銀メダルを獲得した平野早矢香さんは「天才的な感覚だけでなく、小さい時から厳しい練習をしてきた積み重ねがあった」と話す。

卓球のような競技は、ボールに触れる練習時間の絶対量が物を言うとされるが、中国でさえ3、4歳からの訓練には懐疑的な卓球界で、日本がその必要性を認識したきっかけが、福原だった。卓球を始める子どもも増え、水谷隼(木下グループ)、伊藤美誠(スターツ)ら今の現役選手の多くが福原を目標にしてきた。
しかし、人気の陰では苦しい戦いが続いた。球質に相手が慣れている国内では、勝てない。日本卓球協会が海外での実績を評価し、全日本の前に福原を世界選手権代表に内定すると、「全日本軽視」など疑問の声も上がった。

海外でも中国の壁は厚かった。最大の理由はフォアハンドの弱さにある。小柄で非力。バック主体に設計された卓球。体格に勝る中国選手に、回転量の豊富なフォアドライブで攻められると、対抗するのは難しかった。フォアにはバックほど天性の非凡さもなかった。多くの関係者は「繊細なボールタッチの感覚など、センスでは水谷や石川佳純(全農)の方が上」とささやいた。

◇20年目の日本一

07年頃から、福原もフォアの強化に取り組む。間違えばバックの強みも失うリスクがある。卓球界にはオフがなく、次々と大会に出ながら取り組む技術改造には時間がかかった。

11年、4歳下の石川に全日本制覇の先を越され、福原のモチベーション維持を危ぶむ声が聞かれた。当時まだ22歳とはいえ競技歴は長く、体の故障も出始めていた。引退表明のブログに「何度もやめようかと考えたことはありました」と書いたが、この時期もそうだったのだろう。

しかし、翌年の全日本でついに努力が実を結ぶ。フォアとバックの切り替えが速くなった。フォアで回り込む3球目攻撃も随所に織り込んだ。初めて進んだ決勝で石川を破る。卓球を始めて20年目の日本一。

「夢なんじゃないかと思います」「日本一になったことがなくて、ずっと肩身の狭い思いをしてきました」。福原の涙に、多くの関係者や観客がもらい泣きした。

この年、平野さん、石川と臨んだロンドン五輪でも、準決勝でシンガポールを倒し、銀メダル。世界選手権でも銅が続いていた壁を破り、五輪で一段高い表彰台へ上がった。

そして4度目の五輪となった16年リオデジャネイロ大会は、仕上がりの良さと集中力に目を見張るものがあった。決勝進出は逃したが、3位決定戦に勝って銅メダル。集大成にふさわしいプレーに多くの卓球人が「さすが愛ちゃん」と感嘆した。

北京五輪聖火リレーの走者を務めた福原愛=2008年4月26日、長野市内【時事通信社】
北京五輪聖火リレーの走者を務めた福原愛=2008年4月26日、長野市内【時事通信社】

当時の日本代表監督・村上恭和さんは「かつて周りに気を使わせていた選手が、リオ五輪ではまとめ役になったことが印象深い」と語った。そんな変化も、特異な経験を積み重ねてきたことによる成長の跡か。

新幹線の車中で、福原を見つけた修学旅行生が集まってきて車内が混乱した。他の乗客に迷惑が掛からないようにと、グリーン車を使ったら今度は「子どものくせにぜいたくだ」と言われた。そんな逸話は数知れない。

高校時代から中国超級リーグに参加し、中国でも絶大な人気があった。北京五輪前に聖火リレーが日本を通った時、福原もスポーツ関係者の1人として長野県内のコースを走っている。当時、関係者が明かした。

「彼女の場合は中国から要請があり、『中国枠』で走った。日中間が政治的にぎくしゃくしても、経済・文化などの関係は守りたい中国にとって、愛ちゃんは貴重な存在。彼女も自分の役割を分かっていて、本当は日程がきつい時期だったが走ってくれた」

◇引き受け続けた重圧

大会運営にも大きな影響を与えた。通称「愛ちゃんコート」もその一つ。それまでの会場は20を超す台が同じように並び、有力選手が同時にあちこちで試合をするので、記者も観客も追うのに大変だった。福原目当てのテレビやカメラマンが増え、観客席から見やすい位置に、取材スペースも確保したコートを設営するようになった。今も引き継がれ、有力選手の試合が割り当てられる。

福原に注目が集まる分だけ、他の選手の負担が軽くなった面もある。平野さんは「愛ちゃんのおかげで卓球がメジャーになったけど、本人に集まる注目とプレッシャーは本当に大きかった。私だったら卓球を続けられただろうかと思うくらい。そんな中で戦って、すごいなあと思っていた」。間近で見て感心したのは「オンとオフ、卓球場にいる時と出た時の切り替えがうまかったこと」だという。「そういうふうに心掛けていると言っていましたね」。幼い頃からの経験で身についたのかもしれない。

リオ五輪後に結婚、出産。ブログには「卓球界を引っ張っていくため、子育てをしながら競技を続ける必要があると思っていました」とあるが、2年の間に卓球界は激変した。男子の張本智和(エリートアカデミー)や伊藤、平野美宇(日本生命)ら十代の若手が台頭し、中国に迫ろうとしている。観客や報道陣も減っていない。張本や伊藤ら若手もバックハンドが大きな武器だが、高速で攻撃的なバックは、もう福原のそれとは違う。

リオのメダルが人々の記憶に新しく、一方で新リーグ「Tリーグ」開幕を3日後に控えた時期に表明した「勘の良さ」は、福原らしい。

ただ、引退しても、一つの時代が終わった感覚より、福原が切り開いた時代がさらに広がり、将来へつながる期待の方が大きい。それほど足跡が大きく残っている。リオまで頑張り続けたことで、若い選手が勇気づけられ、成長が後押しされたようにも見える。

近藤さんは「電話で報告を受けて『お疲れさまでした』と言いました。決して天才じゃなかった。こつこつ努力して準備して・・・そういうことの天才。粘り強く諦めずにプレーした試合は素晴らしかった」とねぎらう。日本スポーツ史に名を刻む人気者は、卓球ブームけん引や底辺拡大の功績とともに、諦めない姿を後輩たちに残した。(時事ドットコム編集部)(2018/10/22-19:46)

情報源:「努力の天才」が残したもう一つの功績 福原愛引退(時事通信) – Yahoo!ニュース

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記事の有効期限: 2018年12月22日 Saturday 11:53pm