将棋・羽生善治竜王が「弟子」をとらない理由 | 東洋経済オンライン

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今年2月、国民栄誉賞を受賞した羽生善治氏(写真は2016年10月に今井康一撮影)
今年2月、国民栄誉賞を受賞した羽生善治氏(写真は2016年10月に今井康一撮影)

棋士たちの素顔は、知れば知るほど面白い。ウィットに富んだトーク、厳しさを知るがゆえの優しさ。そして日常の出来事をすべて将棋に照らす独特の思考。これまで将棋を指したことがない人でも、将棋の人生観にはひかれるものがあると思う。
本稿では、1人の棋士が育つ過程を「師弟」という視点で描いたノンフィクション師弟 棋士たち 魂の伝承から抜粋し、自らの師と本書に登場する棋士たちについて語った羽生善治氏のインタビューをお届けする。

師匠の記憶

——師匠の二上達也九段との“師弟対決”の思い出から伺えますでしょうか。

公式戦での対局は、私が五段で18歳のときでした。当時の私の段位だと、かなり勝ち上がらないと師匠と対戦することはできません。盤を挟んで向き合ったときにはやはり感慨深いものがありました。結果的に私のカウンター攻撃がうまく決まって勝つことができたのですが、対局は気がついたら苦しい展開になっていて、経験値の差を感じました。

その後、感想戦をとても長くやってくださいました。普段は30分から1時間なのですが、2時間くらい教えていただきました。あくまで推測ですが、師匠にも特別な思いがあったのかもしれません。

——その対局で二上先生は引退を決意したとも伺っています。

私との対局が1989年3月にあって、翌年3月に引退をされています。私と当たる前に、すでに引退の時期を考えられていたのだと思います。ただ、きっかけになったというのは、あるかもしれません。

師匠が引退したのは、まだ50代でしたし、順位戦もB級1組に在籍していました。あと10年は現役を続けられたと思うのですが、潔い引き際でした。木村(義雄)十四世名人が48歳で引退されているのですが、その影響もあったと聞いたことがあります。

——二上先生からの言葉や特に印象に残っているエピソードは。

入門した頃は、お正月に師匠の自宅にあいさつに行くというのが恒例行事でした。5〜6人の弟子たちとおせちを食べながらテレビを観たり、将棋を指したりしました。若いときは将棋が一本調子になりやすいので、「バランスよく指すことが大事だ」と教わりました。

あと、師匠はカラオケが大好きでしたが、弟子たちの前で歌うことは絶対にしなかったのです。晩年になって、やっと一緒に行ってくれました。そのときは山口百恵の「いい日旅立ち」を歌われていましたね。

——羽生先生は歌われないのですか?

私はもっぱら聞き役です。そりゃ〜そうっす。歌ったことはありますが、ほぼ聞き役です(笑)。

いちばん強く影響を受けている谷川九段との対局

——「師弟」の中に登場する棋士との思い出を伺いたいと思います。谷川(浩司)九段は王位リーグに7期ぶりに復帰されました。真っ先に「羽生さんと久しぶりに対局できるのが嬉しい」と発言されていました。

公式戦では、数年空いていますね。いちばん覚えている対戦といえば、やはり阪神・淡路大震災直後の王将戦第2局です。栃木県の日光で行われたのですが、当初は延期になるのではないかと考えていました。無事に実現できるとわかったときは、安堵しました。対局の日に、谷川先生が着物姿で「おはようございます」と対局室に入ってきたとき、雰囲気やたたずまいが違ったんです。説明するのは難しいのですが、醸(かも)し出しているものが違ったんです。

あと最終第7局の、最後の一手を指すときの手つきが、重々しかったのが印象に残っています。谷川先生は普段、軽やかな手つきなんですよ。

——谷川九段と対局されるときは、やはり特別な感情はありますか。

谷川先生が史上最年少で名人になられたのは、私が奨励会に入会した年でした。名人戦の展開を、固唾(かたず)をのんで見ていました。その後小学生の大会で谷川先生が得意としていた4五角戦法が大流行してましたね。私自身、いちばん強く谷川先生の影響を受けていると思います。初めて公式戦で当たったときは、かなり緊張しました。

——森下卓九段とは4度、タイトル戦を戦われています。

森下さんと名人戦をやっている最中に、とても印象に残っていることがあります。

1日目が終わって、関係者との会食の後、森下さんと同じエレベーターに乗り合わせました。対局相手と鉢合わせることはよくありますが、ふつうは会釈だけです。それが降りたところで森下さんに「ちょっといいですか」と呼び止められて、ふつうに雑談が始まったんです。長くなったので途中でソファーに移動して、二人で1時間くらい話しましたかね。シリアスな話は一切ありません。

森下さんは本当に屈託のない方で、対局中であろうと気にしないんですね。私も普通に話しているのですが、タイトル戦の最中だと思うと不思議な気持ちですよね。話の内容は、まったく覚えていません(笑)。私は数多くタイトル戦を戦ってきましたが、その最中に対局者とこんな長く話したのはあのときだけです。

——深浦(康市)九段とも2度、王位戦を戦われています。

いつも熱い方なんですが、地元の佐世保での王位戦のときはテンションがすごかったですね。王位戦は西日本新聞にも棋譜が出ますから、そういう面でも力が入ることはあるでしょう。そのタイトル戦(2007年度第7局)は名局賞を受賞していると思います。それ以外でも、いつも変わらず対局に気持ちを込めている印象があります。

——藤井(聡太)七段の師匠、杉本(昌隆)七段との対戦は?

杉本さんとは長手数の熱戦の記憶がありますね。師匠の板谷進先生(九段)も長手数の勝負を得意とされていました。将棋の普及にとても力を注いでいらした方で、杉本さんもその心を受け継いでいると感じます。中京地区はそうした基盤があって、棋士も在住していますし、棋道師範の方もいます。そうした中で藤井さんのような存在が出てきたのだと思います。

古き良き昭和の時代

——名伯楽として、一門の所帯も大きい石田(和雄)九段と森(信雄)七段との思い出は?

石田先生と対局した頃は、まだ棋士全体がにぎやかで……(笑)。だから石田先生だけがしゃべっていたわけではないんですよ。午前中の対局はほとんど雑談みたいな感じで。棋士同士でしゃべるだけでなく、記者のほうからふつうに話しかけていました。

今だったら「なんてことを!」って感じでしょうね。持ち時間も長かったですし、お昼ご飯を食べて、それからようやく考え始めるような。のんびりとしたいい時代です。昭和と平成では隔世の感がありますね。

森先生とは、私の順位戦のデビュー局で対戦しているんです。私が関西将棋会館に行くことも滅多になかったですし、初めての6時間の持ち時間でした。

そのとき、村山さん(聖九段)も同じく順位戦のデビュー戦で、初めてお会いしました。今と違ってネットなどの情報がありませんでしたが、関西にすごい人がいるとの評判は聞いていました。そのときは話しませんでしたが、「彼がうさわに聞く村山君か」と。

石田先生、森先生ともに若い人たちを自然に無理なく育てていく雰囲気があります。

ここで森下九段が突然インタビュールームに入ってきた。理事の仕事で部屋が空いているか確認しにきたらしい。丁寧にあいさつをして出ていった。偶然に一同驚くが、先ほどの話を思い出して場が和む。

若手の新風を受けて

——各先生のお弟子さん、若手の棋士についてはいかがでしょうか。

糸谷哲郎(八段)さんは、才気にあふれている印象ですね。自身の対局以外にも、関西での「西遊棋」などの普及イベントで、事務的な役割までかなり頑張っているようです。

都成竜馬君(五段)は四段になるまでは苦労しましたけど、これからそれを取り返していってほしいと思わせてくれる棋士です。奨励会時代には名人戦、棋聖戦で記録を録ってくれました。

タイトル戦で記録係を任される人は、しっかりとした方が選ばれているんです。谷川先生は、たたずまいや将棋と向き合う姿勢でもいちばんのお手本ですから。彼はそのすばらしさを受け継いでいると思います。

増田康宏君(六段)と佐々木大地君(四段)は、実は彼らが子どものときに対局しているんです。小学生の頃から非常に強かったので、印象に残っています。順調に育っている感じですね。この2人がこれからどういうふうに活躍していくかは、とても楽しみです。

増田君は新人王戦も連覇していますし、実力は相当あります。藤井君がいなかったら、彼がその立場だったと思います。そういう意味でも、これからに注目です。

佐々木勇気君(六段)は、石田先生が目に入れても痛くない可愛がりようですね。小学生の頃からプロ四段といい勝負をしたと聞いています。これからもっと活躍できる棋士です。師匠の石田先生同様、解説での話も面白いので、幅広い活躍が期待できます。

——取材を通して、若い世代の棋士の考え方が、師匠の時代と大きく違うと感じました。昭和の時代の棋士は、将棋を文化として捉えている部分が大きいですが、若手の世代では、技術の習得にかなり傾倒しているように思えます。

プロになること一つとっても非常に難しくなっている時代ですので、ゆとりを持って将棋を考えていく余裕がないのかもしれません。ただ、若いときはある程度、技術だけを求めてやっていくのもいいと思うのです。20代の前半までは、そういうやり方でいいのではないでしょうか。私も10代の頃は自分が強くなること以外は考えませんでした。

——若手の棋士には「詰将棋は技術の向上にはあまり関係ない」という意見もあります。

そういう可能性もあります。「昔はうさぎ跳びしかなかったから、うさぎ跳びをしていた」わけです。時代とともにトレーニング方法は変わっていくんじゃないですか。詰将棋はちょっと根性論みたいな部分もあるので。そういう部分を取り除いて、最近の若手は取り組んでいるのだと思います。

——羽生先生は15歳で棋士になって、対局、対局で忙しい日々。将棋以外に青春の思い出はありますか?

私がプロになった頃は、まだ世間の雰囲気ものんびりしていました。そんなに活動が制限されていたわけではないです。10代後半の頃、対局が終わって先輩に連れられて普通に夜の新宿とか歩いていても大丈夫でしたよ。今なら補導されるか、連れていった人もペナルティですよね。今はいろんなものがタイトすぎる感じはします。

弟子をとらない理由

——羽生先生は基本的にお弟子をとらないということですが、ご自身が培(つちか)ってきたものを伝えたいという気持ちはないのでしょうか?

将棋の世界は、こう教えたから育つというものではない気がします。基本的に自分の力で強くなっていくものです。

また、私が培ってきたものを伝えることが、本当にその人にとってプラスになるのか。そのときは自分ではすごくいいものだと思うかもしれませんが、本質的に伝えられる人にとってプラスかどうかは、また別の話だと思うのです。

師弟 棋士たち魂の伝承
師弟 棋士たち魂の伝承
——羽生先生が話されていることや著書の中で書かれていることは、とても哲学的に感じるのですが、普段からいろいろなことに思考をめぐらせているのでしょうか?

自分で特に意識しているわけではないです。以前は移動中に本を読んでいましたが、最近は飛行機に乗ったらすぐに寝てしまいます。何かを考えている時間より、どこでも寝られることのほうが、最近は大切です。

——たくさんの記録を残されてきましたが、いちばん誇りに思うものは何でしょうか?

それは「年間最多対局」(2000年に樹立した89局)ですね。米長(邦雄)先生の記録を超えたときは感慨深いものがありましたが、自分で誇りに思うというよりも、正直、疲れた〜という感じでした。いったいどれだけの時間対局室にいたのだろうと。

羽生善治は永世七冠を達成したときに、「将棋そのものを本質的にわかっていない」と語った。自らの記録は「通過点」であり、長く膨大な研究の一端にすぎないという。彼が弟子をとるとすれば、「将棋とは何なのか」、その答えに近づいたときかもしれない。
最後に、年間最多対局に触れたときだけ、少し自分を称えるように笑った。

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