羽田孜元首相が死去 82歳

82歳か・・・


羽田孜元首相が死去 82歳

羽田孜元総理大臣が28日朝、東京都内の自宅で老衰のため亡くなりました。82歳でした。

羽田氏は長野県上田市の出身で、バス会社に勤務したあと、昭和44年に父親の後継として衆議院旧長野2区で自民党から立候補して初当選し、平成24年に政界を引退するまで14回連続で当選しました。

羽田氏は当選同期で、現在、自由党の代表を務める小沢一郎氏らとともに田中派に所属し、その後、竹下派の結成に参加していわゆる「竹下派7奉行」の1人に数えられ、農林水産大臣や大蔵大臣などを歴任しました。

そして、竹下派の会長だった金丸元副総裁が東京佐川急便事件で議員辞職したことをきっかけに小沢氏らとともに竹下派を出て羽田派を結成し、平成5年6月に政治改革法案の取り扱いをめぐって提出された宮沢内閣に対する不信任決議案に賛成して自民党を離党しました。

そして、みずからが党首となって小沢氏らとともに新生党を結成し、翌7月の衆議院選挙の結果、自民党を下野させて、日本新党の代表だった細川護煕氏を総理大臣とする「非自民連立政権」を樹立しました。

羽田氏は細川連立政権で副総理兼外務大臣を務め、およそ8か月で細川内閣が総辞職したのを受けて、第80代の内閣総理大臣に就任しました。

しかし、内閣の発足直前に当時の社会党が連立政権を離脱したことなどから政権基盤が弱く、戦後2番目に短い在任64日で羽田内閣は総辞職しました。

その後も羽田氏は一貫して自民党に代わる新たな政治勢力の結集を訴え、新進党の結党に参加したほか、盟友だった小沢氏と対立して新進党を離党したあとは平成8年に太陽党を結成し、平成10年1月には「国民の声」や「フロムファイブ」と合併してできた民政党の代表になりました。

平成10年の民主党の結成にも参画して、その後、幹事長や最高顧問などを歴任し、保守系のグループのリーダーとして活動しました。

民主党が平成15年に小沢氏が率いていた当時の自由党と合併してからは、一度は、たもとをわかった小沢氏の相談相手にもなりました。

そして、平成22年9月に「年齢や体力に限界があるし、悲願だった政権交代も実現できた。次の衆議院選挙には立候補しない」と表明し、平成24年の衆議院選挙に立候補せず、政界を引退していました。

地元 長野県上田市では地元 長野県上田市では

羽田孜元首相が死去 82歳

羽田元総理大臣の地元、長野県上田市のJR上田駅前では羽田氏が亡くなったことを伝える新聞の号外が配られました。

66歳の女性は「連立政権で総理を務めていたことをよく覚えています。政権は2か月ほどで短命でしたが、もう少し長くやってほしかったです。一度は総理になった上田の方なので亡くなったのは残念ですが、一つの時代が終わった感じがします」と話していました。

また、49歳の男性会社員は「残念な方を亡くしました。最近はメディアにも出ていなかったので、亡くなったことを号外で知って驚きました。激動の時代のなか苦労も多かったのではないかと思います」と話していました。

自民 二階幹事長「温厚な人柄で敬愛集めた」

かつて羽田氏とともに新生党や新進党の結成に参加した、自民党の二階幹事長は、記者団に対し「政党をともにしたこともあり、思い出は深く、大変残念だ。温厚で人の意見にじっくり耳を傾けて対応する政治家で、その穏やかな人柄はみんなから敬愛されていた。羽田氏が残した政治への思いをわれわれはあらゆる面で引き継いでいかなければいけないと思っている」と述べました。

民進 蓮舫代表「政治改革に大きな功績」

民進党の蓮舫代表は国会内で記者団に対し「非常に残念だ。羽田氏は『ミスター政治改革』と呼ばれていたが、私が行財政改革を追い求めてきたのは羽田氏の功績がとても大きかったためだ。みずから前に出る方ではなかったが、譲らないところは譲らない、頑固な方だった。そうした思いを私たちも学んでいかなければならない」と述べました。

情報源:羽田孜元首相が死去 82歳 | NHKニュース


省エネルックで演説する羽田孜元首相(1996年)
省エネルックで演説する羽田孜元首相(1996年)

羽田孜(はた・つとむ)元首相が28日午前7時6分、老衰のため、東京都内の自宅で死去した。

82歳だった。民進党の羽田雄一郎・元国土交通相は長男。

羽田氏は1935年8月24日、東京都大田区で生まれた。成城大経済学部卒業後、69年衆院選で父の羽田武嗣郎ぶしろう元衆院議員の後継者として、旧長野2区から自民党公認で初当選し、連続14選を果たした。

中曽根、竹下両内閣で農相、宮沢内閣で蔵相を歴任し、小沢一郎・自由党共同代表らとともに「竹下派七奉行」の一人に数えられた。

93年6月に宮沢内閣不信任決議案に賛成して自民党を離党。小沢氏らと新生党を結成し、党首に就いた。同8月、細川内閣に副総理兼外相で入閣し、94年4月の細川首相辞任後、第80代首相に就任した。

内閣発足直前に社会党が連立を離脱したため、少数与党での不安定な政権運営となり、6月に総辞職した。在職日数は戦後2番目に短い64日だった。

退陣後は新進党、太陽党、民政党を経て、98年4月の民主党結成に参加。2012年11月の衆院解散で政界を引退した。最近は、体調を崩しがちで、自宅などで療養を続けていた。

夏場は、半袖の上着の「省エネルック」を愛用した。

情報源:羽田孜元首相が死去…82歳、「省エネルック」 : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)


自民党の二階俊博幹事長は28日、羽田孜元首相の死去を受けて「温厚で周囲の意見をよく聞いて対応する政治家だった。穏やかな人柄はみんなから心底敬愛されていた」と党本部で記者団に語った。

二階氏は、羽田氏らが平成5年に自民党を離党して結成した新生党に参加、その後の新進党にも加わり羽田氏と長く政治活動をともにした。

二階氏は「今一度ゆっくりと来し方を顧みて話をしてみたかったと思う。羽田先生が築いた政治活動の路線をしっかり引き継いで頑張っていかなければいけない」と述べた。

情報源:【羽田孜元首相死去】自民・二階俊博幹事長「穏やかな人柄、心底敬愛された」 – 産経ニュース


羽田孜元首相が28日午前、老衰のため東京・世田谷区の自宅で死去した。82歳。関係者が明らかにした。東京都出身。葬儀は9月8日午後1時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は妻綏子(やすこ)さん。羽田氏は政界引退後、多発性脳梗塞で闘病していた。

成城大卒業後、小田急バス勤務を経て昭和44年に衆院旧長野2区で初当選し、当選14回。自民党旧竹下派出身で「七奉行」の一人に数えられ、中曽根、竹下両内閣では農相を務めた。リクルート事件を受け、自民党選挙制度調査会長として政治改革に取り組み、小選挙区導入の旗振り役となった。

宮沢内閣では蔵相に就いたが、平成5年6月に野党が提出した宮沢内閣の不信任決議案に賛成。小沢一郎氏らと共に自民党を集団離党して新生党を結成し、同年8月に発足した「非自民」勢力7党1会派による細川連立政権では副総理兼外相を務めた。

細川内閣の総辞職を受け、6年4月に第80代首相に就任。少数与党のため政権基盤は安定せず、同年6月の予算成立後、総辞職に追い込まれた。在任期間は64日間。戦後では東久邇宮内閣の54日に次ぐ2番目の短命政権で、現行憲法下の内閣では最も短い。

情報源:羽田孜元首相が死去(1/2ページ) – 産経ニュース


羽田孜元首相が28日午前7時6分、老衰のため、東京都内の自宅で死去した。82歳だった。東京都出身。政治改革の実現を唱えて自民党を離党し、1994年に非自民連立政権で首相を担ったが、在職日数は現行憲法下で最短の64日間だった。葬儀は9月8日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻綏子(やすこ)さん。

小田急バス勤務を経て、衆院議員だった父武嗣郎氏の後を継ぎ、69年の衆院選に旧長野2区から自民党公認で出馬し、初当選。連続当選14回。93年に同党を離れ、旧新生、新進、太陽、民政各党を経て、98年に民主党入りした。

自民党では旧田中、竹下両派に所属し、農林水産相や蔵相を歴任。当選同期の小沢一郎氏らとともに竹下派「七奉行」と呼ばれた。竹下派継承をめぐる対立で小沢氏らと同派を離脱すると、宮沢内閣不信任決議案に賛成。自民党を離党して新生党を旗揚げし、細川護熙首相の連立内閣に副総理兼外相として入閣した。細川氏が退陣した94年4月、後継の第80代首相に就いた。

だが、政権内の対立で旧社会党が連立を離脱し、少数与党に転落。羽田内閣不信任決議案が提出されると、94年6月に総辞職した。

96年の衆院選で新進党が敗北した後、党首だった小沢氏との確執が生じ、離党して太陽党を結成。98年の民主党結党に参画し、幹事長の要職も務めた。2012年の衆院選に出馬せず、政界を引退。13年春の叙勲で桐花大綬章を受章した。

温厚な人柄で、自民党時代は金丸信元副総理から「平時の羽田」と評された。オイルショックを機に考案された半袖ジャケット「省エネルック」の着用を続け、夏場の軽装「クールビズ」の先鞭(せんべん)をつけたことでも知られる。民進党の羽田雄一郎元国土交通相は長男。 (2017/08/28-13:45)

情報源:羽田元首相が死去、82歳=在職64日、現行憲法で最短 (時事通信) – Yahoo!ニュース

情報源:羽田元首相が死去、82歳=在職64日、現行憲法で最短:時事ドットコム


ご冥福をお祈りいたします。