吉田松陰、形見の短刀=140年ぶり「帰国」-前橋

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吉田松陰形見の短刀。上から2本目が刀身=3月28日午後、前橋市役所

幕末の思想家吉田松陰の形見として、群馬県出身の貿易商の子孫が米国で保管していた短刀が昨年、約140年ぶりに日本に戻った。前橋市の鑑定で本物と分かり、5月7日まで前橋文学館で公開されている。

市によると、日米貿易の先駆者として生糸の輸出拡大に貢献した新井領一郎の孫ハルが著した「絹と武士」に、松陰の妹・寿(ひさ)が渡米する領一郎に兄の形見の短刀を託す場面がある。明治9(1876)年ごろで、寿は「兄の魂は、夢であった太平洋を越えることによってのみ安らかに眠ることができる」と語ったとされる。寿は領一郎を援助した初代群馬県令、楫取素彦の妻だった。

2015年、米国に住む領一郎のひ孫ティム新井さん(57)宅に代々保管されていた短刀が、ハルの著書に記された短刀と特徴が似ていることが分かった。ティムさんは昨年8月、楫取とゆかりのある前橋市に短刀を寄託した。

短刀は室町時代のやりを改造したもの。長さ約31センチの刀身には「国益作」の銘があり、つかに獅子の金細工が施されている。

専門家を交えた市の鑑定で、著書の記述と制作年代や大きさがほぼ一致した。著書では「国富という銘が入った」とあったが、ハルが「国益」を読み間違えた可能性があるという。

市の担当者は「明治維新から来年で150年になるのを前に、志半ばで亡くなった松陰が近代化を果たした日本に帰ってきたことに縁を感じる」と話している。(2017/04/03-04:37)

情報源: 吉田松陰、形見の短刀=140年ぶり「帰国」-前橋:時事ドットコム


寄託された「松陰の短刀」。手前から鍔、切羽、銘が彫られた刀身、小柄、鞘と金細工が施された柄。奧の袋は「小葵紋」の絹製で市は寿が作ったとみている

明治9年、群馬産生糸の直輸出ルート開拓のため渡米する新井領一郎に初代県令・楫取素彦の妻、寿(ひさ)が贈った吉田松陰形見の短刀。「渡米を果たせなかった兄・松陰と思い一緒に」と告げた有名なエピソードの証拠の品が、子孫から前橋市に寄託され、市が鑑定し「松陰の短刀」と認定した。米国で4世代にわたって受け継がれた“松陰の魂”は140年を経て日本に戻り、31日から前橋文学館(前橋市千代田町)で一般公開される。(住谷早紀)

■知られていなかったエピソード

水沼村(現・群馬県桐生市黒保根町)出身の領一郎は、東京商法講習所(現一橋大学)で学び、水沼製糸場創始者の実兄・星野長太郎の命で群馬の生糸を海外商社を介さず直輸出するために渡米した。その後、生糸貿易で成功し、日米貿易の基礎を築き、生涯で90回太平洋を渡ったとされる。

「松陰の短刀」は最初の旅立ちの際に受け取った記念の品だが、実は渡した楫取家でも、受け取った新井家でも、このエピソードは詳しく語り継がれておらず、知らない子孫の方が多かった。

■松陰の妹・寿が贈った短刀

世に発表したのが領一郎の孫、ハル・ライシャワー(1915~98)。駐日米大使エドウィン・ライシャワーの妻としても知られるハルが、1986年に家族史として出版した「絹と武士」の中で、学生時代、米国留学中にコネティカット州の祖母(領一郎の妻、田鶴)から聞いた話として紹介している。

田鶴はハルに短刀を見せ、寿の語った「この品には兄の魂が込められ、その魂は兄の夢だった太平洋を越えることによってのみ安らかに眠ることができる」との言葉を伝えた。

その後、このエピソードは広まり、楫取素彦の子孫・楫取能彦氏は「20年前に初めて知った。非常に感動的な話だ」と語った。

■ハルの記述とほぼ一致

「絹と武士」で紹介された短刀は、約35センチ、15~16世紀のもので鞘(さや)は金細工を施された漆塗り。刀身には「国富(くにとみ)」の銘があり、「現在は私の従兄(いとこ)、新井領に受け継がれている」とハルは記している。

昨年8月、短刀を前橋市に寄託したのは、新井領の息子で米カリフォルニア州在住のティム新井氏。領一郎の曾孫にあたる。市は昨年12月から、寄託された短刀とハルが記述した短刀を照合し、長さや鞘の細工、黒漆塗りの特徴などが一致し、「松陰の短刀」と認定した。

一部専門家は短刀の銘がハルの伝える「国富」ではなく室町時代、九州・四国にいた刀工「国益(くにます)」ではないかと指摘したが、ハルが短刀を見たのは執筆の約50年前であることから、市は銘は「国益」の可能性が高いとしている。

銘の考証を行った籾木(もみき)郁郎・宮崎県総合博物館学芸課長は、「銘の鑑定がなかなか難しく、確定とまではいかないが『国益』と読めた。室町時代の日向国(現宮崎県)に同名の刀工がいたと確認されている。短刀は吉田松陰の遺品ということで、歴史的、希少価値が相当高いと思う」と語った。

■宮部鼎蔵と交換か

松陰は「回顧録」の中で黒船に乗り込む直前、勤王の志士、宮部鼎蔵(ていぞう)と刀を交換していたことを書き残している。形状や銘など詳細は不明だが、前橋市文化スポーツ観光部の手島仁参事は「短刀が宮部と交換した刀と断定はできない。だが、可能性を否定することもできない」と語った。

寄託された短刀は室町時代の槍(やり)を改造したもので、柄に獅子を施しているが質素な造り。ティム氏は「宮部は槍の名産地・熊本の出身。短刀が宮部と交換した刀というのは十分あり得ると思う。祖父や父からは元が槍なので、女性用と聞いていた。短刀は代々保管しており、1度も持ち出しはしていません」と語った。

■4年にわたる捜索

前橋市は、楫取素彦没後100年に当たる平成24年、記念の目玉にと「絹と武士」に登場する短刀の捜索を始めた。米国の新井家に保管されていた4振りのうち3振りを鑑定したが、銘が無く、1度は諦めた。最後の1振りとなったのが寄託された短刀だった。ただ、当初は槍を改造し一見短刀に見えなかったため除外していた。一昨年、調べたところ「国益」の銘があらわれ、日の目を見ることになった。

鑑定で時代考証を担当した三宅紹宣(つぐのぶ)広島大名誉教授(専門は幕末期長州藩)は「蟄居(ちっきょ)中だった松陰は上級武士でもなく、手紙を書くときは安い紙の裏にも文字をびっしりと書き詰めるような質素倹約の人で、華美を好まなかった。寄託された短刀が質素で素朴なのは大きなポイントで、松陰の形見にふさわしく、市の判断には納得がいく」と語った。また、短刀の来歴のにも触れ、「来歴は正しく由緒もあり、手渡された経緯もはっきりしている。140年にわたって新井家という然るべき場所にも保管されていた。その点も市が短刀を松陰の形見と認定したポイントになったのではないか」と指摘した。

前橋市は3月下旬、松陰の墓がある松陰神社(東京都世田谷区)で短刀の奉告式を行った。前橋文学館での一般公開は、5月7日まで。松陰ゆかりの地・山口県萩市などでも展示を予定している。

情報源:「吉田松陰の短刀」140年経て米国から帰還 新井家が寄託、前橋市が「本物」と認定 前橋文学館で公開(1/4ページ) – 産経ニュース


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